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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

90.生存感覚・生存意識

  本来の生存条件である稀少性、有限性そしてマチエールにかんする感覚の欠如ないし希薄化によって生存感覚・生存意識は、本来の健全さを喪失し認識力・判断力も歪になっている。 

 その主な原因は、マスメディアとインターネットによる過剰ともいえる情報によるところが大きいと考えられるのだが、あらためて次の所説を確認しておきたいと思う。

  

稀少性について: 小山俊一

 この地上に生れてくる人間がみな衣食足りて生きながらえるということは不可能であって、だれかが(むしろ大部分が)かならず飢えるか栄養不良になるかして死ななければならぬ、このことは人類史をつうじて今にいたるまで変らない―という基本事実の根底にある世界条件(人間全体にたいしての物質の不足、生産の不足)をサルトルは〈稀少性〉raretéとよんでいる。(中略) 

 また「国家を形成している集団の性質は、そのなかの余計者たちによって規定されており、集団は存続するためには数的に減少する必要がある。こうした数的な減少はいつも実際的な必要としてあらわれているが、かならずしも殺人というかたちをとるものではないことには注意しよう。」(傍点私)しかしかならず、殺人という意味をおびることにも注意しよう。

 私の註― つまるところ〈稀少性〉という世界条件のもとで人間支配があるかぎり「殺され」死は必然的だというわけだ。当然のはなしだ。

『EXーPOST通信』弓立社、44-45ページ

 

有限性について: ヴィクトール・E. フランクル

 私たちは、いつかは死ぬ存在です。私たちの人生は有限です。私たちの時間は限られています。私たちの可能性は制約されています。こういう事実のおかげで、そしてこういう事実だけのおかげで、そもそも、なにかをやってみようと思ったり、なにかの可能性を生かしたり実現したり、成就したり、時間を生かしたり充実させたりする意味があると思われるのです。死とは、そういったことをするように強いるものなのです。ですから、私たちの存在がまさに責任存在であるという裏には死があるのです。

 そう考えると、どれだけ長生きするかということは、本質的にはまったくどうでもいいことだということがはっきりするでしょう。長生きしたからといって、人生はそれだけではかならずしも意味のあるものにはならないのです。また、短い生涯に終わってもずっと意味のある人生だったかもしれません。あるひとりの人の自伝を判断する基準はその自伝を叙述した書物のページ数ではなく、もっぱらその書物が秘めている内容の豊かさだけなのです。

 (『それでも人生にイエスと言う』山田邦男・松田美佳訳、春秋社、47ー48ページ)。

 

マチエール感覚について: 辺見庸

 マチエールということばを使いましたが、それは人でいえば、においとか温もりとか、冷淡さとか、あるいは抱きあったときの感触とか、つまり質感や手触りや痛覚のことです。そういう交感可能だったものがいま、交感不可能になっているのではないかとおもうのです(25ページ)。

 マチエールをうばわれると、人間の生体はとんでもないゆがみ方をしていくのではないかというのがぼくの直感としてはあるのです(37ページ)。

 見ている側もメディアがこれでもかこれでもかと浴びせてくる虚像の世界を実像だと錯覚してしまう。「悲惨」ということばが、マチエールというのかな、本当に手触りもったことばとしてつたわってこない。それがかえって、いちばん悲惨なことだとおもうのです

(84-85ページ)。

 いまの若い人たちは、いや大人も、総じてマチエールをうばわれて、リアリティというものをそれぞれの肉体から剥ぎとられていっている。そういう時代に生きているのではないかとおもうのです。だから、愛とか痛みとか、人間の感覚のなかでもっとも大事な根源の部分が、麻痒させられてきている。痛覚がなくなってきているし、相手の痛覚も想像することができない(119ページ)。

(『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』大月書店、2009年。のち角川文庫、2010年)。 

 

   情報の「的確な選択」さらには「断捨離」によってあたかもプチ断食が、心身活性に似た効果を生存感覚・生存意識にもたらすだけではなく、諸関係における情報の功罪を再認識させる。

 意識産業からの情報を受け入れるしかなく「依存」効果の対象でしかなかった「虚ろなかかわり」を断絶することによって蘇るのは「個」の叫びだ。再生されるのは、自考力といってもよいし、自己教育力といってもよいかもしれない。