辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

93.恥じなき国の

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 恥じなき国の恥じなき時代に、「人間」でありつづけることは可能か?と、辺見庸は問うています。厚顔無恥で軽薄な者たちを見聞するにつけ、この辺見の指摘が胸に突き刺さります。
 

 罪の文化も恥の文化も、本当は自己の目、自己の声に照らして自ら問い答えることによって成り立つものですが、実際はそのようにはなっていません。

 自己が横にズレ置かれ(疎外され)、罪の文化は神の目を、恥の文化は世間の目を意識したものになり、社会秩序のためのいわば統治手段の用具(概念)になっているのです。

  

 ですから、恥じなき国の恥じなき時代に、「人間」でありつづけることは可能か?との問いは、人が個として自らの内声に耳を傾けまたは実相を見つづけることによって、意識を対象化し欺瞞なく内的宇宙で交信できるか?と言い換えてもよいのだと言えます。

 そこには罰する神も非難する世間もないからこそ、個が求められるのです。煎じ詰めると自己のNot(Notwendigkeit)としての義を裏切ることができるのかということになります。

 

 多くの日本人が、自らの加害者性と愚鈍とを自覚しないまま、マスメディアと風潮に洗脳され、時代に棹差して異口同音の虚言を口にしています。

 それらを見せつけられては欝状態になるのも自然なこと。神経症もいわば時代の公傷だと開き直り笑い飛ばす。神経症統合失調症も治癒することを第一義にしない。ありのままに「生きる」。北海道浦河のベテルの家の「ゆるゆるスローな」「普通に生きる」人々は立派です。

 

 思い起こせば、最大の戦犯である天皇ヒロヒトが自決せず、処刑を免れ延命したことが、戦後の日本人の精神構造を腐敗堕落させました。 

 そして物質的豊かになったと錯覚し、モノの亡者に皆が陥って精神の自立を喪失してしまったのではないでしょうか。