辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

95.快楽にしびれる脳内回路

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 アベ首相は、かつて「美しい国、日本」と言っていた。いまでもこれをひろく浸透させたいらしい。それには春の日、咲き誇る桜の花に皆が集い酔いしれる国のイメージがあるが、実体は違うのではないか。

 

 特攻隊員のことについてアベは、「かれらは、愛しきもののために、他方、自らの死を意味あるものにし、自らの生を永遠のものにしようとする意志もあった。日本という国の悠久の歴史が続くことを願った。かれらはいのちをなげうって守るべき価値が存在したのだ」と記している。それを美しいニッポンの自然とともに語っているのである。(安倍晋三美しい国へ』文藝春秋)。空々し文章である。

 2,000万人以上のアジア・太平洋各国の人々を、ニッポンが大東亜共栄圏構築という妄想のもと、侵略して殺したことについては一行も触れていない。

 

 辺見庸は、ニッポン民族の情念さらには意識の古層にあるものを次のように捉えている。(アベの意識の最深底辺部にもこの種のものが棲みつき、彼を突き動かしているらしい)。 

 恐怖をかんじるのと快楽にしびれる脳内回路は、おもいのほか近いのだという。つまり戦慄とアクメはとなりあわせており、両者はしばしば短絡して、ふたつながらふくれあがり、結局、からみあったまま死へと昇華していくほかない。血しぶきとオルガスムスが同時的に噴きだすのである。そのことと日本的情念の古層にはなんらかのかんけいがあるはずである。と、1970年11月25日、三島由紀夫自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺したときわたしはおもった。

(『国家、人間あるいは狂気についてのノート』毎日新聞社、2013年、9頁)。

 

 「桜の樹の下には屍体が埋まっている」との書き出しで始まる掌編小説を書いたのは梶井基次郎であった。アベはそこで記されている「屍体」には目をつぶる。

 特攻隊として散っていった青年たちを「美しい」と称賛しているが、「水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚(あつ)めて、その液体を貪欲に吸い続けている。」という実態について見ようともしない。

 侵略そして戦争によって殺された人、戦死した兵士たちは、「桜の樹の下」でいまでも無念に苛まれている。その屍体のうめき声に、残された家族たちは必死に耳をかたむけているのだ。

 

 「この国の住民の脳には生まれながらにテンノ性ガンという不治のガンが巣くっている」(小山俊一「オシャカ通信No.2」248ページ)。しかも、マスメディアによって皇室関連情報によって「テンノ性」が繰り返し発信され、その「ガン」が励起されているのである。

 

 国・権力者・天皇の犯罪、そして国や権力者に命じられ、そしてテンノ性にたぶらかされて他国の人々を殺しまたは戦争に加担した者の加害者性は否定できない。それを「自虐史観」として非難し、しかも厚顔無恥に「未来志向」とほざく。とんでもない「自己チュウ」意識の持ち主たちと言わざるを得ない。

 

 美しいニッポンがあるのではない、ニッポンの美しさがある。すくなくとも、そう言えるようになるためには、表層批評では捉えられないことがあまりにも多い。小林秀雄が多用するレトリックの裏面を暴くような地道な洞察が求められる。

 

付記

 奈良県宇陀市の「又兵衛桜」(写真)と佛隆寺千年桜。いずれも田園のなかにある一本桜です。夕暮れに行くと一層妖しさが映えます。そこから小一時間ほど車を走らせると、曽爾村の屏風岩公苑を背景にした山桜を鑑賞することができます。

 (これらはすべて見頃がずれていて、とくに屏風岩公苑の桜は、開花が遅い)。