辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

96.軍隊の本性 

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  司馬遼太郎は、生涯、天皇または天皇制について直接言及(論評)することを避けたが、高山彦九郎  ( 天皇潜在的君主とする志を全国行脚して説いた )を、さりげなく好意的に評価する一文を残したりしている。

 一方で、司馬にしてはめずらしく、先の戦争末期の陸軍大臣(阿南近畿)の発言や『鉄の暴風』(沖縄タイムス社編)を参照しながら、軍隊の本質を批判的に見抜いている。

 

 軍隊というものは本来、つまり本質としても機能とし ても、自国の住民を守るものではない、ということである。軍隊は軍隊そのものを守る。この軍隊の本質と摂理というものは、古今東西の軍隊を通じ、ほとんど稀有の例外をのぞいてはすべての軍隊に通じるように思える。(中略)軍隊が守ろうとするのは、たとえ国民のためという名目を使用しても、それは抽象化された国民で、崇高目的が抽象的でなければ軍隊は成立しないのではないか。(司馬遼太郎街道をゆく 二」『司馬遼太郎全集第48巻』414頁)

                              

   現在、ニッポン政府は、国民のいのちと財産を守るという美辞麗句を並べ、自衛隊を実質的に侵略可能な「軍隊」として憲法に明文化するべく画策している。首謀者は例のアベである。

 

 あの司馬遼太郎でさえ軍隊の本質が「自国の住民を守るものではなく、軍隊は軍隊そのものを守る」と述べているのだ。実際、敗戦直前の沖縄で、ニッポン軍が沖縄の住民を守るどころか逆に沖縄住民をスパイ扱いし、さらには村落から逃げるなどした住民を殺したのだ。

   沖縄駐留米軍は沖縄の人々を決して守りはしない。日本駐留米軍は日本人を決して守りはしない。彼らは彼らの軍を守る、彼ら自身を守る、彼らの国を守るために駐留している。

          

 司馬遼太郎は、また、次のような言葉を残している。

「日本人は均一性を欲する。大多数がやっていることが神聖であり、同時に脅迫である」。

  

 現代消費資本主義下でのマス・マーケティングや脅しのマーケティングの対象としての消費者の姿がそこにある。金太郎飴のごとく「個」が溶解し、人びとが共同自己衒示的幻想へと駆り立てられていく。まさにこれがニッポンのファシズムの根茎に通じているのである。

   

 最後に例によって辺見庸の見解をみてみよう。彼なりの目で国家の本質を的確に突いている。慧眼である。

 

 国家が、本質的に抑圧機関であることは疑いない。けれども、まったくそうではなく、あたかも救済機関や理性(真理)体現機関のように、魅力的に見せかける欺岡に長けているのも、近代国家の特徴ではある。

 要するに、ひどく見えにくい。国家の、そうした不可視性こそが曲者である。なぜ、見えないのか。それは、国家というものが、断片的な実体とともに、非実体である〈底なしの観念領域〉を併せもつからではないだろうか。換言すれば、国家とは、その図体のほとんどを、人の観念領域にすっぽりと沈みこませているのはないか。

 極論してしまえば、国家は、可視的な実体である以上に、不可視の非在なのではないか。極論をさらに、進めてみる。国家は、じつのところ、外在せず、われわれがわれわれの内面に棲まわせているなにかなのではないか。それは、ミシェル・フーコーのいう「国家というものに向かわざるをえないような巨大な渇望」とか「国家への欲望」とかいう、無意識の欲動に関係があるかもしれない。

 ともあれ、われわれは、それぞれの胸底の暗がりに「内面の国家」をもち、それを、行政機関や司法や議会や諸々の公的暴力装置に投象しているのではないか。つまり、政府と国家は似て非なる二つのものであって、前者は実体、後者は非在の観念なのだが、たがいが補完しあって、海市のように彼方に揺らめく国家像を立ち上げ、人の眼をだますのである。そのような作業仮説もあっていいと私は思う。

(『永遠の不服従のために』毎日新聞社、2002年。のち講談社文庫、2005年、75-76ページ)。