辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

98.「根源」を見つめ続ける 

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 辺見庸は文学という世界で、厳しい自己との対話を繰り返してきた。スィン(罪業)を凝視しながらクライムを超える自由を達成するべく、もがいてきた。

 作品には微細であっても欺瞞があってはならない。それが無自覚な偽りであったとしても。細部に偽りが宿っていれば「罰する」。それは彼自身への戒めでもあった。

 

   

 作品に下駄を履かせてはいけない。高名な俳人だろうとなんだろうと、上げ底にしてはいけない。また、逆に詠み手の経歴から全面的に否定してもいけない。

 文学というのは、それほど苛烈なものだという思いが僕にはある。だからこそ法を超える宇宙性をもっている。少なくともクライムという意味での犯罪は超えるでしょう。クライムは、法律上の罪として対処されますがそれを超えて自由を達成できるのが文学です。

 文学は根源的罪(スィン)を視圏に置くものです。そうした言葉は文学や哲学にしかないはずだと思います。そう確信しますが、この国では実現されているとは言いがたい。死刑制度を受容するような文化に、根源的罪を視圏に置く哲学的深みは期待できない。

(『明日なき今日  眩く視界のなかで』毎日新聞社、2012年、146-147ページ)。

  

 通常の人智や生存感覚を超えた世界に入る。快楽原則と損得世界に生きる者にとってその真髄は容易には理解できないだろうし、理解しようとの気も起らないかもしれない。

 明日を思い煩うことなく今日を生きる。それはそれで幸い。厄災続きの暮らしをなんとか乗り越えられればよしとするのが精いっぱいなのだから。深遠な世界ましてやその真髄など求める必然も視線もまったくない暮らしを幸い(幸運)としてすがりつくのである。

 

 トップランナーや成功者から「元気をもらう」のでは、どうしてもやりきれなさが尾を引く。そして実際は、人生とは歯医者にかかっているようなもので、これからが本ものになると思っている間にもうすんでしまっているビスマルク)といった状態になってあの世の人となるのである。

 

 時に全く荒みのない人へ思いを馳せたら、「革命」を幻視したいものである。時代と情況が自己に求めることに対して、内なる必然の声に耳を傾けながら応える。  

 ステレオタイプな区分で少し気が引けるが、自問の種類と年代のメドを示してみる。 何がしたいか 10~20歳代、 何をなすべきか 30~40歳代  できることのうち何をするか 50~60歳代、何をするほかないか 70歳代以上。

 

 だが本当のところは、自己の内なる必然の声がどんなものか、それに耳を傾け続ける。その点では年代、性別などすべての属性を超えている。