辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

99.「自己規制」や「忖度」を強いる社会は精神の自由を侵している。内面荒れ狂う辺見庸の言葉。

  不自由であってもいろいろ悩まずにすむからといって怠惰な安寧に逃げ込まない。だが、まっとうに生きようとすれば権力に殺される、「殺され死」せざるを得ないが、各人が各様に葛藤しながら行動するしかない。そのことを肝に銘じながら生きる。それが十字架を背負って生きるということではないか。

 十字架の前で祈れば神に救われるなんてすり替えである。壮大な哲学・思想・宗教理論は観念のお化けの世界であり一種の魔界である。

 

 自由を侵すもろもろに対して怒り、批判する。撃つことだってありとする。そして責任を取ること、誠実であること、それらができないことを恥とする。

 人間にとって最も大切なことは、結局、「自由」であることである。辺見庸は心底からそう考えている。「自己規制」や「忖度」を強いる社会は「個」の自由を侵している。 

 

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 ところで、次に、辺見庸の激言、極言、直言を記したい。わたしたち一人ひとりに突き付けられた問いである( 少し分量が多いがじっくり読む価値があると思います )。

 

異視点からの主張

〇中国と戦争やるのか、ロシアと軍事力を競うのか。事実上、九条は機能していない。非核三原則だって危ない。武器輸出の原則も崩しつつある。そうしてこの国がいくら軍備を増強したって、あんなマンモス象みたいなのにどうやって対抗するのだと、その非科学性を言っているんです。九条死守より軍備増強のほうが客観的合理性を欠くのです。

 だから米国の軍事力に頼れ、日米安保を強化しろ、沖縄は我慢しろ、というのは絶対に違う。その逆です。身体をはった徹底的なパシフィズム(平和主義、反戦主義)が僕の理想です。九条死守・安保廃棄・基地撤廃というパシフィズムではいけないのか。丸腰ではダメなのか。国を守るためではなく、パシフィズムを守るためならわたしも命を賭ける価値があると思います。(『明日なき今日』113ページ)。

〇僕は、すごく変ないい方をすると、あの憲法は、言葉のもっともいい意味で反国家的だと思う。反国家主義で反権力主義です、あれは。現状の反動化と戦う最大の武器です。あんな憲法はないです。あんな憲法はないということを、僕は非常に高く評価するわけです。各国憲法史上はじめてですよ。戦力不保持を明言ずる。読めば読むほど、筆者の深い思いのこめ方を感じますよ。GHQの強圧だけでは、ああいう深い意思を表現したセンテンスというのは、前文もふくめてでてこないんじゃないか。(『単独発言』136ページ)。

〇映画でも文学でも偽善は絶対いけない。だからこそ安っぽいヒューマニズムもいけない。だれにでも利用されるような、どんな政党にも、どんな政治的綱領にも使われるような安手のヒューマニズム、人権という言葉はいらないと思うのです。

(『不安の世紀から』226ページ)。

〇「善人」よりも「悪人」といわれているひとの話のほうが、聞いていて引き込まれる。あきらかに存在として底光りする魅力があるのです.つまり、善魔よりは悪魔のほうがよほどおもしろい。ユーモアもある、深みがある、ということがいえると思うのです。

(『いま語りえぬことのために―死刑と新しいファシズム』72ページ)。

 

直言

〇見ないこと、知ろうとしないことくらい非人間的なことはない。

(『抵抗諭一国家からの自由へ』258ページ)。

 〇他者の苦しみを苦しむことができない。隣人の痛みを痛むこともできない。絶対にできない。にもかかわらず、他者の苦しみを苦しむことができる振りをするのがどこまでも巧みだ。

(『たんば色の覚書 私たちの日常』 20ページ)。

〇いまという実時間の最中に「思う」こと。思惟すること。それを自分の言葉にして表現すること。ときに自己決定をみずからに迫ること。それこそが、この時代にあっての私の抵抗といえば抵抗なのです。

(『絶望という抵抗』258ページ)。

 

テロ

テロリズムとは、こちら側の条理と感傷を遠く超えて存在する、彼方の条理なのであり、崇高な確信でもあり、ときには、究極の愛ですらある。

(『単独発言』49ページ)。

こちら側の生活圏で、テロルは狂気であり、いかなる理由にせよ、正当化されてはならない、というのは、べつにまちがってはいないけれどあまり容易すぎて、ほとんど意味をなさない。

(『同上書』49-50ページ)。

パレスチナ自爆テロがまちがっているなんて、とてもいえませんよ。

(『いま、抗暴のときに』222ページ)。

〇あらゆる誤解を覚悟していうなら、私はそのこと(同時多発テロ)に、内心快哉を叫んだのである。

(『単独発言』51ページ)。  

〇男への死刑の執行、その怖れに打ち震えているのである。新たなる9・11並みのテロ、スペクタクル、戦争よりも、国家による私の友人殺しのほうに心底打ちのめされる。

(『独航記』425ページ)。

〇私は、そして読者よ、〈時の共犯者〉よ、後に虹の不首尾を知ったとき、内心なにを想ったか。臓腑をすっぽりなくしたような虚脱とともに、<虹よ、いっそ架かればよかったのに>と、一刹那なりとも無神経に考えはしながったか。白状しよう。私は脳裡のスクリーンに派手やかな虹を架けてみたことが一再ならずあったのだ。

(『記憶と沈黙』71ページ)。

 

死刑の廃絶

〇死刑制度をどう考えるか。その答えのいかんで、その人の思想や世界観の一端どころか、おそらくはいちばん大事なところが見えてきます。人間観の中心部分も照らしだされます。

(『単独発言』256ページ)。

〇『永遠の不服従のために』では、「人間はどこまで非人間的になれるのか」ということも考えましたが、僕はこれを確定死刑囚の友人がかつて犯した罪に向けているのではまったくなく、死刑制度や戦争という国家犯罪に向けていっているのです。

 エンツェンスベルガーは、私的な殺人は公的な殺人と比べものにならないほど数が少ないと指摘して、国家の存在自体が犯罪なのだということを証明しようとしましたが、人間の非人間性は私人からではなくまさに「非私人」の組織体から発生するように思われます。

 僕は死刑制度に反対です。そのことと戦争に反対することは、僕の内面では、ほぼ同じことなのです。

(『いま、抗暴のときに』234ページ)。 

〇ニッポン的、あまりにニッポン的な絶対的空無の深淵とでも言いましょうか。その明度、彩度、色相において、禁中と刑場は、はなはだ申し訳ないけれども、通底しているのではないか、似ているんではないかと私は怪しむし、怪しむ権利があると思います。

(『いま語りえぬことのために』76ページ)。    

 

天皇

天皇一家の人権を考えようとしない。実際上の人権蹂躙なのです。逆にまた担ぎ上げようという「天皇制利用主義者」と「天皇制的俗物」たちの動きがある。そういう日本的なイデオロギーというのかな、日本的な慣性やニッポン型ファシズムの「矮小性」というものを下支えしているのは、やはりマスメディアだね。

(『明日なき今日』53ページ)。

 〇戦前、戦中の日本の天皇ファシズムは、たしかに苛烈な一面をもっていたけれども、それはかならずしも上からの絶えざる強圧的統制、全面的かつ暴力的弾圧を必要とするものではなかったともいわれます。下(民衆レベル、マスメディア、教育・文化界)からの協調主義的全体主義化や日々、自然に醸成されていく〃おのずからのファシズム〃といった側面もありました。朝野あげてのその摩擦なきファッショ化は、ナチス・ドイツも羨ましがったほどだった、といわれます。

(『瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ』85ページ)。

〇漂白された嘘の風景は、あの日以来、世紀を越えて、いまもつづいている。試みに自問してみる。万一、あの日、あそこに虹がかかっていたならば、あの日から引きつづく今日は、多少はよくなっていたのだろうか?とんでもない、そんなことはありえないのだ。

  ただ、はっきりしているのは、あの日、虹がかからなかったので、あの日に引きつづく今日がよくなったとも、とてもではないが、いえはしないことである。私はさらに自問する。では、虹の試行には、まったくいかなる意味も見出しえないのか、あれは二百パーセントの愚挙だったのか、許しがたい妄動であったのか、そのように簡単に過去を決着していいのか……と。答えは保留である、保留。

(『記憶と沈黙』56-57ページ)。 

 

悲嘆、指弾そして唾棄

〇自分の声はどこにも届かないのに、ひとの声ばかりが聞こえる。いや、ひとの声さえも、心の底からの声は聞こえてこなくなっている。

(『いま語りえぬことのために―死刑と新しいファシズム』87ページ)。

 〇最近何度かインタビューを受けたけど、それは大抵日本はどうなるんだ、どういうふうに復興すればいいのかというものなんだ。そういう質問じたい不愉快なので、この際一回滅びたほうがいいんじゃないかと言うと、正気なのかという目で見られて、けっきょくそれはなかったことにされて新聞に載らない。ぼくは本気で言ったのにね。

 こんなインチキな国はなくなったっていいじゃないか、棄てちまえ、と。いくらニッポンでも千人に聞いたら一人ぐらい言うよ、この際一回なくなってしまったほうがいいじゃないか。そういった言説を全部きれいに消していく作業だけは、メディアの連中は見事にやる。

(『死と滅亡のパンセ』83-84ページ)。

 

付記

*出典名は略記しています。