辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

B-3 “生と死“:辺見庸の潜思

「死」について。

 辺見庸は「死」について、深くかつ多角的に考えた作家である。 死はどのみち遠からずやってくるとはいえ不条理な死が多く、「普通の死」がいかにかけがえのないかを思い知らされる。辺見は著作の中で国家の「殺人」である死刑について反対の立場から多く言及しているが、それ以外にも次のような死について述べている。

  戦死 拷問死 安楽死 憤死 慙死 慚死 狂死 横死 熱死 大量死 被爆死 賭した死 孤独死 自死 自餓死 爆死 病死 自然死 悶死 犬死(に)水死 縊死 溺死 窒息死 尊厳死 難死 無為の死 

 精神的な死 国家の死 言説の死 哲学の死 戦後民主主義の死 

(これら以外にも、次のような死もある)。

 斃死 頓死 冤死 討死 情死 殉死 獄死 「殺され」死 客死 諌死 焚死 変死 佯死縊死 圧死 凍死ほか 

 

 辺見庸の死に関する文章の中から選んで、次の文章を記す。

 【死の不等価】

 米国人一人の死は、たとえば、アフガンの住民あるいはイラクの住民百人、いや千人の死に、事実上、匹敵する、ということだ。9・11テロとその後の事態は、世界に対し、そのことを問わず語りに告げた。つまり、(実際には昔から引きつづいていた)言説の無効を、あらためて宣言したのだ。

 

戦後民主主義の死】

 権力が強権発動してやったんじゃない。むしろ、自然に受け容れてしまった。戦後民主主義が死がいとなって横たわっている。集合的な気分としての民主主義。それがいま、全体主義になっていく。危険な水域に向かっています。

 

【死者と生者】

 いま自分がどこにいるのか、いま自分はどの時間に立っているのか、人と人の関係はどうなのか。もっと極端なことを言いますと、われわれは本当は死んでいるのかもしれない。われわれは死んで語らっているにすぎない。われわれは生きているのだと勘違いしているだけで、本当は死んでいるのかもしれません。そのくらい見当識が危うくなっている。

 

【補遺】

 小山俊一による「殺され」死という概念の捉え方は鋭い。

 「たとえば炭坑事故による坑夫の死、漁船遭難による漁夫の死、工事現場の事故による出かせぎ人夫の死などは、文字どおり「殺され」死だといえる。その「殺され」方に刻印されている階級性もだれの目にも明らかだ。(中略)

 ところが一方、私の死と坑夫や漁夫たちの死とを端的にならべて比べてみるとき、そこには単に「殺され」性の鮮明さ濃厚さの度合のちがいに帰せられないある鋭い相異があるのが感じられるのはなぜか。

 それは、私の生と彼らの生とが地つづきでつながっている面をもつと同時にいくつもの断層で切れている面をもち、ある断層においては彼らの生と私の生とはほとんど対立している(そのため彼らが「殺され」る場合に私の生の重みが彼らを「殺す」側の秤り皿にのっているという場合さえありうる)ということが、双方の死の姿に反映しているからにほかならない」。

(小山俊一『EX-POST通信』)