辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

B-5 もの食う人びと

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     子どもたちが 戦争や失政に巻き込まれ飢餓に陥り、やがて飢え死にする。当該国家の犯罪(クライム)であることは明らかである。

    それが最も弱い「環」、なんら罪も責任もない子どもたちを襲う。 

 米国のイラクに対する経済制裁の影響で、イラクの子どもたちはこれまでに何人死亡したであろうか。はっきりした数はわからない。私が知っているのは、1996年当時までの数字であり、それは、栄養失調などで約50万人をいうものだ。いうまでもなく、現在、死亡者はさらに増えつづけている。

 これに加え、湾岸戦争で米英両軍がイラクに対しはじめて使用した劣化ウラン弾の被曝により、多くの子どもが死んでおり、白血病、ガン、奇形などに苦しむ児童はいまも数知れない。

 しかし、これらにかんする報道の量は、9・11テロに比べたら、数万分の一、すなわち、皆無に等しいかもしれない。

(『単独発言 99年の反動からアフガン報復戦争まで』角川書店、2001年。のち『単独発言 私はブッシュの敵である』と改題、角川文庫、2003年、13ページ)。

  だが辺見庸は、原因は戦争等の当該国のクライム(罪)のみならず、それらに直接・間接にかかわる国家のクライム、さらには国家そのもののスィン(罪業:ざいごう)にあるという。しかもそれを支えているのは普通にものを食い、または飽食している私たちなのだと。

 形而下の『もの食う人びと』について書くと言いながらも、やはり辺見庸は形而上的に「子どもたちの飢餓と餓死」を考えている。

     飢えて食を求めて彷徨う子どもたちの群はまるで影絵の行進のようであった。横たわって小便を垂れ流し、ただ死を待つ彼ら彼女らは、あたかも何百年も前からの入定ミイラのようでもある。修羅と聖なるもの。この相反する二つの意味を、老人とも仏像ともまがう面差しになった五歳児や六歳児が、無声のつぶやきとして語るのである。

    聖なるものは死にゆく子ら。子らを飢え死にさせる修羅も餓鬼道も、大人の側にある。すなわち、子どもたちを餓死させる責任は国家と政治にあり、同時に国家と政治を超え、私たちにある。

(『いま、抗暴のときに』2003年、164-165ページ)