辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

B-7 社会的義(正義・大義)の危さ

  

 明治維新では「義人」と呼ぶにふさわしい人物が世に多く出た。司馬遼太郎坂本龍馬以外にも、たとえば維新に反対の立場で生きた、日本の典型的・代表的な「義人」として河井継乃助をモデルにして『峠』を書き、人気を博した。

 目を世界に転じてみると、数えきれないほどの英雄物語f:id:eger:20170801165630j:plainや義人伝がある。歴史上の最大のベストセラーである『新訳聖書』は、イエスという「義人」が語ったとされる言葉を書き綴った「フィクション」である。

   人びとは正義とか大義とかに本能的に好感を抱く。ましてや抑圧されそれに反発する「義人」にかぎりなくシンパシーを感じる。それは後天的に得た感性というよりは、意識のもっと深いところで感応しているように見える。

   だが、社会的義ほど危ういものはない。小山俊一はそのことを見抜いていた。

 義(「のっぴきならぬNot<必然性>」)の本質は「反・等価」であるが、それが社会的義(正義・大義)として、イデ一(観念)で語られると観念化による欠缺が浮かびあがってくる。

 「Notとしての義」はそのものとしては実現困難だ。しかも「社会的な義」(正義・大義)はその源泉である「Notとしての義」(反・等価の原理)を見失ってしまえば底なしにダラクし形骸化する。一切がカネ(あらゆる等価物の等価物)に換算されて償却され、奪われたものも名誉ぐらいならたやすく「回復」されるのを見ればよい。

  

    辺見庸はそのことを想到していた。それは次の文に顕れている。

 僕は昔から破壊衝動なり暴力衝動があったわけですけれども、それはほぼ他者に向けていましたね。ただ、ここまで時代、社会が閉塞してきますと、ターゲットが絞りにくいわけですよ。

 マクロ的にはターゲットはたくさんある。ありすぎて困るほどです。おびただしい数の敵が世の中には充ち満ちている。その敵集団というか、全社会的な八百長、あるいは全社会的な与党化の中に、私もいるわけですね。そうすると、さしあたり僕自身も破壊し尽くすというか、壊し尽くすという衝動もある。(中略)で

 つまり、破壊衝動といっても、システムや他者をやっつけたくてもですね、最終的には自分を撃たざるを得ないということですね。

(対談集『屈せざる者たち』辺見庸、1996年、267ページ)