辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

B‐8 新刊『沖縄と国家』について  

 

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  辺見庸目取真俊の両氏の対談、印象深かったのは目取真氏の次の発言である。

 実際に毎日300人以上の人がゲート前に座り込めば、機動隊も簡単に強制排除できないし、資材搬入ができなくて工事は止まるわけです。本気でやるということは、効果を出すということですよ。ヤマトゥの偉い知識人としてではなく、一市民として体を張って座り込んで、機動隊に殴られて痛い目にあえば、観念論も吹っ飛びますよ。(目取真:66ページ)。

  目取真氏は沖縄で20年以上闘い続けている。かつて横須賀闘争で機動隊にボコボコにされた経験を語る辺見庸も圧倒され言葉を失うほどである。

 目取真氏の闘争を戦略なき戦術と難じることは容易である。また、組織的に大衆の支持を得ながら政治を動かしてこそ基地問題の打開の道が拓けるといえないこともない。だが、そのようにやってきて現に打開し得たのか。安保を心の底で容認したまま、在日米軍基地反対、憲法(9条)護持を訴えていてよいのか。

                                                                

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 米国の世界軍事戦略の中で「捨石」的な位置づけの沖縄。日々上空に戦闘機が轟音を立てて飛び交い、自然環境を破壊する米軍。人道に悖る非道な犯罪を繰り返す兵士。イラクアフガニスタンの戦場に比べて「リゾート」のような沖縄で米軍兵士は沖縄県民を見下している。日本の政府はそれを支えている。

 このような情況を目取真氏は座視できないのである。身体が自然に辺野古に行く。それが彼にとってやむにやまれぬ「義」(内的必然性)である。笑ってなどいられない、冗談など言えない、おべんちゃらなどもっての外。それを偏狭となじるならなじれ。食や性、そして死。そして創の具象化(作品)による「拓」への欲求。これらを目取真氏は自ら押し込んで「義」に賭けている。そのように生きるのだとの強い信念がある。

「目取真さんはそこで根本的に、いかなる論者とも立場を異にしている。行動様式であり、行動様式の中に<身体>が入っている。むきだされた生身がある」。(辺見:44ページ)

 

「巨大な弾圧体制を政府が敷いて、無関心な日本人の大多数がその弾圧体制を支えている」という牢固なまでの現実があるなか、時にはテロリズムも排除しないとの思いも、目取真氏の掌編小説・小説では語られる。

 個として、単独者としての「義」を「社会化」する道は考えるべき重要な課題であるが、だからといって「社会化」の過程での欺瞞の陥穽に陥っては元も子もないのである。(このことへの議論が大いにあってしかるべきだ)。

 目取真氏はブログで、彼の日常での闘いを報告している。

「海鳴りの島から」目取真俊:ブログ)