辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

B-9 「個」の溶解

辺見庸は「個人という言葉が日本では1884(明治17)年までなかった」との阿部謹也(西洋社会史の研究家)の言葉を紹介している。

    日本には世間はあっても社会がない。「世間」は、人がつねに集団の価値観や意見を優先する。 何よりも個として生きてこそ生きるということなのに、自分で考えることをせずに、自身で「変だな」と思っても異を唱えない。いちいち異説を持ち出して周囲と衝突していては神経が疲れる。周囲との関係を重視し自分の意見を封じ、流されるままに生きている方が楽だとつい思ってしまうのだろう。

 そこにつけ込むのが権力である。物質が液体にとけ込んで均一な液体となる現象を溶解というが、権力にとって私たちは「溶解」の対象でしかないのだ。

 

f:id:eger:20170827161941j:plain 「個」にこだわる。辺見庸の著作のなかで「個」ないし「個人」という語は「死」と同じくかなり高い頻度で出てくる。彼は組織原理に反発し、生産現場の労働者階級の問題のみならず消費資本主義の問題や在日朝鮮人問題、障がい者問題、その他社会的弱者問題を含めて厳しく言及している(階級関係には「言語もかかわっている」との認識も示している)。これらのことから浅薄な「辺見庸=早稲田隠れR派」説を結果的に吹き飛ばすことにもなるのだが、彼の個へのこだわりは、そのような次元にとどまるものではない。

 

  ファシズムまたは独裁、これらも「均一化」「他律性」という点で世間と同じである。ただしこれらは、当初、または表向きの「題目」と、その後の「実体」とは似て非なるものである。

 自分が立っている場所は、他の誰とも共にすることはできないという、ひとりひとりがまったくの独自性というものをもっている。これはひとりひとりの「自由」と言ってもいいと思うんです。

辺見庸『いま語りえぬことのために―死刑と新しいファシズム』2013年、60ページ)。

 消費資本主義社会やマスメディアも例外ではない。これらも「均一化」「他律性」に貫かれており、ファシズムに資するをもっている。

  小山俊一は言う。

 「個とはひとりひとりの人間のことだ。いうまでもなくこの地上にあるものはすべて個としてある。山も海も木も鳥けものも夕焼けも風も波の音もすべて自然は個なるものとしてある。すべて個なるものはくみつくしがたい。しかし私たちにとってもっともくみつくしがたいものはついに人間という個だ。すなわち人間ひとりひとりは個のなかの個、くみつくせぬもののなかのくみつくせぬものだ。

(小山俊一「オシャカ通信」No.2『EX-POST通信』1974年、253ページ)

 個は存続を第一義にしない。目的は、「唯一無二」を実現することにある。後天的に獲得したものを基調とするが、自業・他業が編み合わされ形成され、明確に固有・独自なのは通常はごくわずかしかないものの、わずかでもそれがあれば「個」としてとても貴重なことである。

 一方、利己とは利己的に生きること、その第一義的な目的は「存続」にある。そして結果的に種をのこすことのために行動することである。  

 辺見庸の「個」についての突っ込んだ見解をここで記しておきたい。

 私の個人的テーマでもあるのですけれども、社会が悪くなるというのは必ずしも悪意の人間たちがたくさん増えていることを意味しないと思うのです。私は、いまの社会というのはなんていうのでしょう、たとえば集合的な無意識っていうのでしょうか、あるいは集団的な無意識―ちょっとユングの言葉のようですけれども―に左右されつつあるような気がするのですね。

辺見庸『不安の世紀から』1997年、89ページ)

  

 この国の精神の土壌はいまもって、意志的決定よりは、暖昧模糊とした生成、醸成に向いているようだ。政治、経済の帰趨でも、議論を積み重ねた意志的、計画的な組み立て作業の結果というよりは、ときどきの「空気」によりなんとなくそうなってしまったという、長い生成の結末であることもしばしばである

 無意識の生成のプロセスや、その場の「空気」が、往々、個々人の意志的決定を溶解してしまう。あるいは徐々に呑みこんでしまう。そこに、「私」がいないということはないのだ。「私」はいながらにして溶解してしまうのである。

辺見庸『同上書』279ページ)