辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

B-11 内宇宙の時空間

 辺見庸が、精神世界を深遠かつ広大な宇宙に類比するのは、消費資本f:id:eger:20170924090654j:plain主義のもと、マスメディアなどによって人びとの意識の価値が知らずしらずのうちに奪われていることへの「反逆」のあらわれであると思われる。

 宇宙(外宇宙)の深遠かつ広大さを思うとき、彼の思念の赴くところは「一念三千世界」であると言ってもよい。本来、内宇宙は外宇宙と同じく無限に近い自由な想念の世界である。現実によって生起する意識世界も内宇宙には違いないが、それは内宇宙の一部でしかなく多くの制約のある不自由なものである。  

 宇宙にとっての一瞬が、われわれにとってはたとえば何億年だったりする。宇宙の光にとっては、たかだか一秒間がわれわれにとっては何億年もの光であったりする。われわれはそれを天体望遠鏡を見たり、詩を読んだりしながら感じることはあっても、生身の身体に、宇宙的な時間と宇宙的な現象が、直接に接触したり、交差したりするということは想定しなかった。でも今回、わたしはそれはありうるのだと思ったわけです。わたしは宇宙の時空間のなかにあり、わたしの心身の内部にも宇宙の広がりがあると。

(『瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ』2012年、37ページ)

 

 良寛の次の歌を目にしたとき、辺見庸は自己の内宇宙での観想を思い浮かべたのではないか。私はふとそんなことを想像した。

   淡雪の中にたちたる三千大千世界 またその中にあわ雪ぞ降る(良寛