辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

B-12 大転換

 戦後民主主義の幻想に蝕まれた国民は、深く考えることなく憲法を精神的支柱に添えてきた。それが根本的に間違いであったことは、昨今の「解釈憲法」によっていかようにも改竄できることで明らかになった。権力(政府は)の奥の手としてナチス・ドイツに倣い「全権委任法」を制定するかもしれない。

 なお、戦後民主主義が、決定までに至る過程での情報を含む判断材料としての十分な情報もないまま、多数決をよしとしてきたことも大きな誤りである。戦後の日本の民主制は、いわば情報不開示と論議の未消化の上に建てられた安普請の楼閣であったのである。       

  整然とした街は「平和な」暮らしがあるように見える。だが人は傷つけあい差別f:id:eger:20170927132052j:plainしながら安寧を装っている。一皮むけば「血のしたたる地獄」が露わになる。そんな街が世界中にある。見えない敵を暴くためには「厚化粧」を無理やりにでも落とすしかない。背信者の本性は徹底的に暴く。知らんふりしている狡猾な者へは「自分自身の醜さと罪を知れ」と言い放つのだ。

 

 ところで、辺見庸は「人間という完成度の低いいびつな生物」であることを認めつつ、「個」の内宇宙の自由を守るために、冷徹な決断をし行動してきた。そしてギリギリのところで人間と社会の可変性に賭ける。

 辺見庸の個人的な自省、吐露、そしてもちろん批判もリリシズムとは程遠いものである。それは大病(2004年に脳出血を患う)のあとも変わっていない。

  

 1938年より不自由で、惨めで、不幸な時代がいまなのだ。(中略)いったい何が見える?何が聞こえる?私には何も見えず、何も聞こえはしない。闇と光と影の区別さえつかないならば“いっそ「暴動」は起きたほうがいい”。見わたすかぎり眩く明るい闇を破り、本来の漆黒の闇たらしめるために、試みにいっちよう大暴れしたほうがいい。顔を醜く歪め、声を思いっきり荒げて、これ以上ないほど整然とした街を暴れ回ったほうがいい。

 そうしたら、敵が誰か、仲間は誰か、背信者は誰か、真正の闇がどこに埋まっているか、そこを照らす光は本物かひょっとしたらやっとのことで眼に見えてくるかもしれない。私はこの点滴の管も、すべての延命のチューブもブチリブチリと断ち切って、縞のパジャマのまま裸足で病院を抜けだし、間ちがいなく惨憺たる敗北に終わるであろう一過性の痙攣のような暴動に、冷たい街路をずるずる這いずってでも加わるだろう。

(『自分自身への審問』、184-185ページ)