B-13 死刑制度が現存している限り、私たちは「殺人者」である。
「個体知」「民主意識度」は死刑制度を考えることで高まる。ひとり一人の民主主義の意識と具現。死刑制度を熟慮し、自らの「個体知」を磨くことが当面必要であると思う。
訳のわからないまま選挙が行われ、訳のわからないまま選挙が終わる。誰が死刑廃止論者であるか、死刑存置論者であるか、誰が傍観者で、誰が逃亡者なのかも知らないままに。人としての「根本」が、そして「民主意識度」というものがあるならば、それも問われる。
辺見庸は死刑制度について次のように述べている。
私にはときどき死刑制度というものが思考の試薬のように思えることがあります。あるいはリトマス試験紙のようです。死刑制度をどう考えるか。その答えのいかんで、その人の思想や世界観の一端どころか、おそらくはいちばん大事なところが見えてきます。(略)
この制度を肯定するのか、否定するのか。なぜ肯定するのか、なぜ否定するのか。これにしっかりと答えることは、私たちの生き方そのものに関わるのではないかと私は思います。(『単独発言』角川書店、2001年。256ページ)
私見として死刑制度について要約して書かせていただく。
人を殺した状況や動機、態様などはさまざまであるにもかかわらず、人を殺したものは死で以ってそれを償うべき、殺されたものは二度と戻って来ない、原則、殺人者に生きる権利はないという。結果、世間の応報刑論(主義)がまかり通っている。
しかし、いかなる理由でも国家による殺人(死刑)は認められない。
冤罪や誤判の恐れは完全に払拭できていない、死刑執行の現場実態と死刑執行に至る過程が不明である、死刑制度と社会秩序の保持は証明できておらず、そのためのエビデンスも存在しない、死刑制度を廃止し極刑としては無期刑でなぜだめなのか。
世界の141カ国で死刑が廃止(事実上の廃止を含む)されているというのに。
殺人を犯してしまった人に対して、あたかも社会の災厄として排除するかのように国は死刑を科す。そこには殺人というクライム(罪)が、当事者の意識構造に加えて、基本的に社会の罪業(根罪、政治・経済構造の欠陥、世間や組織の集合意識の偏見等)によって犯された面があるとの認識がきわめて希薄である。殺人者と殺人による被害者の主体は当事者であることに違いはないが、その両者の後背に「社会」・「所属」構造があり、それらの基底に内在する不条理がある。
さらに言えば人間は不完全な存在であるという視点からの考察が必須であると思う。 極言すれば罪業の根深い現代社会では、だれでも人を「殺し」かねないし「殺され」かねないのだ。それには例外はない。だからこそ「殺さない」、「殺されない」社会をつくるのが人間のそして国・社会の責務である。
国が国民を殺してはいけない。死刑制度があるかぎり、私たちは「殺人者」である。
東京拘置所内の刑場
出所:死刑執行の刑場を初公開 千葉法務大臣の指示:YOUTUBE(10/08/27)
(一部加工)