B‐27 辺見庸―毎日新聞に載ったインタビュー記事
辺見庸へのインタビュー記事を読んだ。毎日新聞の藤原章生/記者がインタビューしている。テーマは「官僚らによる一連の不始末」である。
辺見が2004年3月に脳出血で倒れ、その後復帰し『1★9★3★7』の発刊後、朝日新聞や日共などから疎んじられてますます孤立を深めていて、近年では彼の心身の衰えが目立つようになっていたのだった。
記事を読んで正直なところがっかりした。
辺見庸の顔がボーっとしていた(藤原さんの感想)だけでなく、語る内容もボーっとしていた。辺見庸の老いと衰えを感じさせるものであった。
一般人の世間話と変わらない水準の話が記載されている。「馬鹿」という語の由来など少しだけ知識の披露がなされているものの、あんちゃん風のテレビキャスターへの苦言、社会とメディアの批判力の喪失、官僚の語るに値しないくだらない事ども、顔貌が表象たりえない時代のことなど、一般的な言辞のオンパレード。
2016年7月に相模原市で起きた「障害者施設での殺傷事件には興味が尽きない」との辺見の発言にも、あの殺傷事件を見る辺見の心根がはからずも吐露されている。せめて「関心を寄せる」とか「着目する」という語を使うべきではなかったのか。殺され傷つけられ被害者のご家族の心情からすれば「興味が尽きない」(「心がひかれ、おもしろく感じて」の意味)などと言ってほしくはないだろう。その背景に潜在する問題に対しても人間の実存に偏してとらえられていて、社会病理さらには経済・政治構造への緻密な考究が感じられない。
だが、このインタビューの記事内容が凡庸な理由は、辺見庸の老いと衰えだけに起因するものではないということについても触れておかなければならない。
現実に対して客観的な情況の背景・構造そして本質への批判的な切り込みがなされず、心情的な非難に陥っている。徹底した批判がなされていない。耐えきれずに陥る絶望を口にする受傷者として立ち尽くしまたは逃亡するだけなのだ。そして彼の口舌には「突き抜けられなかった」ことへの悔恨の臭いが漂っている。インタビュー記事に顕れた「凡庸」は、過去からの延長線でもある。
(参照、「官僚らによる一連の不始末 ― 辺見庸さんに聞く」毎日新聞:2018年5月15日、夕刊)。
<辺見庸の誤謬(その3)要旨>