辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

B-30  辺見庸:女性の「性」への視点

 太宰治著『満願』の描写への辺見庸の視点についてみてみよう。

 

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 伊豆の三島だと思うのですが、太宰がひと夏をすごしていたところで彼が怪我をして病院にかよううちに医者と親しくなる。

 そこにきれいなご婦人が週に何回かくる。病気のご亭主の薬をとりにくるらしい。ご主人はどうやら、結核かなにかだったのでしょう。

 ときには医者が玄関までその女性を見送り、「奥様、もう少しのご辛抱ですよ」などと声をかけていた。医師は言外にある意味をこめて「ご辛抱ですよ」といっていたわけです。

 ある日その婦人が、もっていた白いパラソルをクルクルッと回して、小躍りするようにして帰っていった。「八月のおわり、私は美しいものを見た」。太宰はそう書きました。

 「けさ、おゆるしが出たのよ」と医者の奥さんがささやく。三年間、我慢していたのが、やっと満願です。もう辛抱しなくてもよくなった。「胸がいっぱいになった」と太宰は書く。そういう小説です。なるほど、うまいなあと私も感じ入る。

(『いまここに在ることの恥』毎日新聞社、2006年) 

 

 ここでは辺見庸が女性の「生」そして「人間存在」をホリスティックな視点から捉えていない面が顕れている。その理由はどこに求められるのか?辺見が幼い頃、故郷石巻の海辺の松林で垣間見た「男女」の行為(実質は「自由恋愛を装った売春」)の記憶が、心の奥深くに刻まれていることに起因していることに思い至る。

 この婦人(女性)の喜び。辺見庸は同書で「三年ぶりの性を解禁されて喜ぶ女」と記しているが、その前に、この女性の三年間の我慢、辛抱とは何かを見なければならないのではないか。彼女の喜びは抑制された「性」の解禁による喜びに限定されるものではない。「性」を生理的な(さらに言えばフィジカルな)面に偏って捉えるのは誤りであると言わざるをえない。

  何よりも結核を患った夫の生命と身体への煩慮ないし心痛からの解放、夫(小学校教員)の病気の快癒による元の暮らし(の予感)の喜びなどが、「もっていた白いパラソルをクルクルッと回して、小躍りするようにして帰って行かせた」のである。その点の認識・明示の意義は小さくない。

  

付記:辺見が描く女性の「性」は、ほかの著作についても同様のことが言える。

辺見庸の誤謬(その5)要旨>