辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

B-34 「なぜ在る?無くても良いだろうに」: 最新作『月』について

       

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 江藤淳は次の言葉を残し1999年7月21日、自殺した。

  「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よこれを諒とせられよ」

 これについて辺見庸は、「形骸に過ぎないこととは、果たして恥辱なのか辱めなのか。形骸のように生きることにはまったく実存的意味はないのか」と疑問を呈した。

 吉本隆明をはじめとする人々が、江藤淳の最期について、死に際がすっきりした人だとか、遺書はさすがに名文だとか評価した中においてである。

  だから辺見庸の『月』での「さとくん」の問いかけや批判は、辺見庸がそのまま首肯してのものではないことは自明である。

 「ただ在るってだけで、幸せっていえますかね。なくなることはいけないことですか?なくすことはわるいことですか?」と問うて重度心身障がい者を殺す「さとくん」を、辺見庸が『月』で肯定的に描いているはずがないのである。また、それと同一線上の思考から「無傷で、手ぶらで、権利だけを叫ぶ人や、いわゆる善の側にたち、お気楽で、ずるい人」を難じる「さとくん」をそのまま容認してはいない。そのように「推察」できるのである。

  では、逆説的表現ないし問題提起として見た場合についてはどうか。

 「"さとくん゛は、なぜ"かれら゛を殺したのか?"さとくん゛は、いったい、だれなのか?」。

 「何故在ったか。無くても良かったろうに。何故在るか、無くても良いだろうに」。

 「なぜ、なぜ、いつまでも『在る』の状況から解放されないのか。解放されてはいけないのだろうか。在りつづけるほうが、かえってひどく空虚ではないのかしらん」。

  これらの言辞を、暗闇から臍帯を通して聞こえてくるかのような辺見庸の呻き声とするならば、読者は困惑せざるを得ない。辺見庸の逆説が逆説になりえず、問題提起の中に提起者の肉声がコンタミネーションとして混入していないと言い切れないとするならばである。

  突然だが、話をここで「老人問題について」に変えよう。

  敬愛したくても、とてもじゃないけどそんな気になれないというのが、老いというものの本質的な実相であり、長寿を祝うどころか、早く死んでもらいたいとさえ思うような、そういう悲惨な状態をハッキリ認識した上で、なおかつ老人を見捨てないという忍耐が、老人問題のすべてである。

  そして老いに対する江國 滋のもう一つの視点はこうだ。

「確実に破壊されてゆく肉体と精神の、そのボロぎれのような姿もまた人間の尊厳の一つに他ならない」。

  江國 滋のこれらの言葉は傾聴すべきだろう(彼が、ディレッタントないし口舌の徒の面があるとしてもだ)。

 ここでの「老人」(破壊された肉体と精神の老人)を「重度心身障がい者」と読み替えたとき、彼らを見捨てず忍耐する(固くしなやかな心で耐える)、ましてや死んでもらいたいとも思わないし、殺したりはしない。重度心身障がい者も人間の尊厳の保有者として同じであるからだ。

  ところで彼らが生きる世界(現実)はどのようなものなのか?

 個体の思念と行動を規定する「生存感覚」「自己内規律」「言語」の三層構造、それらの関係性での齟齬、人びとの心の内奥での「持続する共感」そして「疎通」などありえないというのが現実なのではないか。

  これらのことが、辺見庸によって(権利主張や自己欺瞞への批判からだけでではなく)、どのように思考され表現されているのか。『月』の読みどころである。