辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

B-35 『月』(辺見庸 著)への一視角

 

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 小説『月』が、いよいよ2018年10月末に単行本として発行される。相模原の障がい者殺傷事件に発想を得た作品である。

 相模原での障がい者殺傷事件では、のちにパーソナリティ障害と「診断」された青年(植松聖被告)が、施設で次々と重度障害者を狙って殺した。

 辺見庸は雑誌に連載していた小説『月』の最終回で、その青年をモデルにした主人公さとくんと施設職員とみられる人との会話を交えながら、おもに主人公の想念の動きを軸に描いていく。

 

「なぜ、なぜ、いつまでも<在る>の状況から解放されないのか。解放されてはいけないのだろうか。在りつづけるほうが、かえってひどく空虚ではないのかしらん」(辺見庸

 

 さとくんは心でそう呟く。そして重度障がい者を“心失者”と断定して殺傷してゆく。それを彼ら自身のため、そして公的コスト負担の軽減のため、さらには重度障がい者の関係者(家族など)の負担軽減のために、との勝手な思い込みから直情的行動へと移していったのだ。

 だが、さとくん(すなわち青年)の行動は、上記の「在ることからの解放」という言葉(内語)や、マスメディア情報に侵された排除論理(自己規律)や時代の「社会病理」などとの因果関係が軽視できないものの、「真相」は明らかにされないままである。

 

 かと言って「植松被告の母親がプロのホラー漫画家であることは既に知られている。植松被告は獄中でイラストやマンガを描くことに集中していくのだが、もしかするとそれは小さいころから見ていた母親の影響かもしれない」(篠田博之  | 月刊『創』編集長)との見解も、植松被告の生存感覚の一端でしかないのではないか。生存感覚等の構成要因は輻輳し本人にさえ自覚できない闇だったのではないか。

 

  『月』では最後に、主人公のさとくんは呟く。「ああ、月だ。月に虹がかかっている。カゲロウがはりついているよ。月と虹に、べったりと……虫が」。

 

 辺見庸の『月』はそこで終わっている。上記の重層的構造に関与する要因による存在することの「闇」に迫ることなく、あたかも人間の俗情を「スィン」として放擲したままにである。

  すべての罪業を生じさせる人間(存在)の「不完全性」(根罪)との確執・葛藤・超克・挫折・諦観・反動・誤認・溶解。そこには無数の態様がある。しかもそれらに社会(の罪業)が覆いかぶさる。それらのことからすれば「ああ、月だ。月に虹がかかっている」との発語(表現)の浅薄さがどうしても見え透いてくる。

 

 辺見庸はかつて「誰が誰をなぜ殺したか」というタイトルで、佐賀新聞(2016年8月13日)にこの殺傷事件について特別寄稿しているが、その寄稿文から一部を抜粋して検証しておきたい。

 

 障がい者は生きるに値せず、公的コストがかかるから排斥すべきだというのが、人びとが「心の隅に隠した想い」だというのか。これが「愛する日本国、全人類の為」というのか。ひどい、ちがう!と言うだけならかんたんである。(辺見庸

 

→これでは、「ひどい、ちがう!」とかんたんに確信をもって言う人(言える人)や、熟考しつづけての結論から言下にそう言う人(言える人)がいるという事実と、彼らの生存感覚や自己規律への洞察・言及が欠落している。

 

「生きるに値する存在」と「生きるに値しない存在」の二分法的人間観は、いまだ克服されたことのない、今日も反復されている原罪である。他から求められることの稀な存在を愛することは、厭うよりもむずかしい。だからこそ、その愛は尊い。青年はそれを理解する前に、殺してしまった。かれはわれらの影ではないか。(辺見庸

 

→「原罪」という語よりも「罪業」という語を用いるべきではないか。「原罪」と言ってしまうと、(辺見庸がそのように考えているならば別だが)「人類(すべての人間)の生得的罪」「永遠に克服されることのない罪」としてとらえられるおそれがある。

 

→「他から求められることの稀な存在を愛することは、厭うよりもむずかしい」という表現は厳密さを欠く。「稀にでも他から求められる存在」であれば、けっしてそんなことはない。存在者は誰もが「稀にでも他から求められる(面をもった)存在」なのだ。

 

→辺見は「だからこそ、その愛は尊い。青年はそれを理解する前に、殺してしまった」と述べる。そこでは殺す、嫌うといった行為が「愛」との対比で用いられている。だが、それこそ二分法的思考の表れである。そのかんにはさまざまな意識・感情・行為があることを見落としている。ここで愛と殺人・嫌悪という語をたやすく使うことはないだろう。たとえば、その存在の認識を「忍耐」するという営為もあってしかるべきだし、「愛」という純度の高い認識・営為だけを対比させるのではなく、ほかにも多様な認識・営為があるからだ。

 

→「かれはわれわれの影ではないか」との表現を(同種表現を含めて)辺見はよく使う。しかし、これは辺見以外にも他の作家が以前から用いていたものである。

 たとえば1969年に連続射殺事件を起こした永山則夫について、中上健次は次のように述べている。

 

 永山則夫という犯罪者は無数の永山則夫のうちの一人なのだ。(中略)無数の永山則夫と、唯一者永山則夫のちがいは、犯罪をおこなったか、否かである。(中上健次

 

 また、辺見庸が「われわれらの影」と書いてしまうと「私をその<われわれ>の中に入れるな」と異議申し立てをする人びと(の声)がかき消されてしまう。青年(植松聖)の意識・動機と行動に対して安易に同一化(包摂)することは、画然とかれと異なる者の存在をないがしろにするに等しく、断じて許されることではない。 

 

 中上も辺見も、これは一種のレトリックとして使っているのだろうが、唯一者とそれ以外の人とを峻別するという重要な点がぼやけてしまっている。(ただし、中上は辺見と違って「われわれの」とせずに「無数の」という語を用いているが)。