辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

B-37 いっそ滅亡を

 

f:id:eger:20210621110639j:plain

 鵺のような社会、欺瞞に満ちた世の中、窒息しそうな状況。 見て見ぬふりをしていても、やがて斃死してしまうか、それとも結局殺されてしまうか。「許せない」「やってられない」「暴いてやる」・・・。

 暗く湿った発語。やがて疲労破壊やクリープ破壊を起こす、多くの延性破壊者たち。生き延びさせられていることに耐えられなくなる。暴発する。自己規律を内語で作り上げ(自己教育して)自壊する。根源的な不完全性を背負い込んだ人間、存在者。必要悪である秩序の積み木崩し。

 せめて自己規律の構築は、目的化した権力秩序に資する方向ではなく、個の「生の拡充」を。加えて、暴発の方向が問われる。

 

 小説『月』(辺見庸

 「さとくん」の行動は明らかに前者だ。それは「生の拡充」を錯誤した「生の希薄」からの暴発、滅亡願望、自己延性破壊行動であった。その後背に厳存する不条理が蔓延する社会・歴史。そして生存感覚。

 個々におけるそれらとニヒリズムとの確執。存在の闇と言うには根は深すぎるが、眼力だけは保持したいものである。 

   

 泰淳のエッセイ「滅亡について」は言う。「すべての倫理、すべての正義を手軽に吸収し、音もなく存在している巨大な海綿のようなもの」。ついで、こう記している。「すべての人間の生死を、まるで無神経に眺めている神の皮肉な笑いのようなもの」。武田泰淳はそれらのことどもを脳裡に想定したうえで「私の現在の屈辱、衰弱を忘れ去らしめるほど強烈な滅亡の形式を、むりやり考え出してはそれを味わった。そうすると、少しは気がしずまるのであった」と述べる。(辺見庸『死と滅亡のパンセ』)

 

「本当は滅亡しないといけなかった、滅亡が不徹底だった」とも武田泰淳は言う。この泰淳のきわどい発言を辺見庸は「ラディカルで新鮮です」と捉えている。

 そこでは「再生は限りなくゼロに近い状態から生まれる」との寓意を読み取らなければならないのだろうが、滅亡で死んでいった(「殺され」死した)者が浮かばれるためにも、滅亡が新生に限りなく近い再生へとつないでいく。

 再生を願い担う者は根こそぎの変革の出口を求め、起ち、燎原の火を幻視する。それは陰画としての全的滅亡による荒野を反転させる唯一の火である。