辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

B-40 しおどきだろう

 

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 辺見庸は、現在、どのような心境にあるのだろうか。

 去る11月11日のブログでは「もういいのではないか。やめてもよいのではないか。いいかげんしおどきだろう・・・。」と書いてはいたが。

 荒み切った社会・経済・政治そして言葉や知の情況の虚しさに絶望しながら、人間の「存在」の根源まで突き詰めて考える。その佇まいはシベリアのラーゲリに抑留されていた詩人の石原吉郎に通じるものがあるのではないか。石原が生きた時と空間と状況こそ異なるものの、そう思う。

 

 言葉がむなしいとはどういうことか。言葉がむなしいのではない。言葉の主体がすでにむなしいのである。言葉の主体がむなしいとき、言葉の方が耐えきれずに、主体を離脱する。あるいは、主体をつつむ状況の全体を離脱する。

石原吉郎「沈黙と失語」『望郷と海』筑摩書房

 

 置き去りにされた者たちは、その事実を自覚できないまま、ただ彷徨している。

 

 私たちはおたがいにとって、要するに「わかり切った」存在であり、いつその位置をとりかえても、混乱なぞ起りようもなかったのである。(中略)ここではただ数のなかへ埋没し去ることだけが、生きのびる道なのである。こうして私たちは、個としての自己の存在を、無差別な数のなかへ進んで放棄する。

(『同上書』)