辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

B-41 どこへもとどかない

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 言葉がとめどなく拡散し流通している。そのうつろな情況に人びとの意識と感覚が麻痺してしまっている。霧雲がかかったようななかで眼と耳を研ぎすまさなければ自分を見失ってしまう。

 

 「言葉とメディアはたんに資本の自己増殖の手段となってしまった。そうして死刑による屍体たちも、“虚空の輪舞”を踊っている」(『いま語りえぬことのために-死刑と新しいファシズム-』)と、辺見庸は言っている。「“虚空の輪舞”とは資本の増殖運動そのものである」と看破したのがローザ・ルクセンブルグ(1871-1919)であった。

 

 いまは、人間の声はどこへもとどかない時代です。自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかりきこえる時代です。日本がもっとも暗黒な時代にあってさえ、ひとすじの声は、厳として一人にとどいたと私は思っています。いまはどうか。とどくまえに、はやくも拡散している。民主主義は、おそらく私たちのことばを無限に拡散して行くだろうと思います。

石原吉郎『海を流れる河』花神社、1974年)。

  

 それだけではない。否、だからこそというべきか。多くの人びとが世の成行きにのみこまれ、または自らのめり込んでいる。根腐れした生存感覚。

 

 服従をしいられたものは、あすもまた服従をのぞむ。それが私たちの〈平和〉である。私たちはやがて、どんなかたちでも私たちの服従が破られることをのぞまなくなる。そのとき私たちのあいだには、見た目にはあきらかに不幸なかたちで、ある種の均衡が回復するのである。

 (石原吉郎『望郷と海』筑摩書房、1972年)。

 

 競争に駆り立てられ、利便性の罠にはまり、ほんのわずかな分け前にあずかる。得たものに比べて失ったものがあまりにも大きい。生きていられるだけでも良しとせよとの権力の詐術。

 これに対して、上記のローザ・ルクセンブルグは言う。「少数の前衛党のエリートによる決定の英知よりも、労働者階級による誠実な間違いの方が長い目で見れば好ましい」。この洞察がリアリティをもってくる(あくまでも労働者階級の誠実が前提であるが)。

 存在の価値は、失ったことの不幸によって得られ、その重みを知ることができる。土壇場に至る直前のキャスティングボートはせめて留保しておきたい。