辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

B-43(2) 雲

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 天空に悠然と浮ぶ積雲。行雲流水に憧れる人も少なくないだろう。雲は絵画や詩、小説にも描かれてきた。時間や空間そして状況の変化によって雲はえも言われぬ造形美を見せる。(彩雲、滝雲、光芒など)

 一方、異形の雲に驚くことがある(モーニング・グローリー、夜行雲、ダウンバーストなど)。

 雲に人間の罪業を見る眼も忘れてはならないだろう(原子雲、兵器としての雲、放射性物質や有害物質を含む雲、社会の矛盾溶解への利用)。

 産業(農林水産業や工業・サービス産業・情報産業)活動とつながりをもつ雲。自然災害をもたらす雲の乱調と防災についてもしっかりと見据える。

 雲をゆっくり観想することなく日々を過ごす私たちだが、雲について哲学することがあってもよいのではないか。

 辺見庸が著作の中で、「空そして雲」について述べているのは次の箇所である。

 

 まるで天空によく澄んだ海がぽっかりと浮かんでるようであった。海原を下界から見上げている感じなのだ。

  実際の話、最近訪れたカブールの空の美しさといったらなかった。わすれな草の色からつゆ草色へ、つゆ草色からサファイア・ブルーへ、さらにはターコイズ・ブルーへと、頭上の大海原は時とともに艶めき色合いを変えていく。雲の具合によっては、さかんに波立っているみたいでもあり、雲がなければないで、まつたき凪のようにも思えるし、少しも見飽きるということがなかった。

 長い戦乱で荒みに荒んだ下界との対照から、私はことさらにカブールの空の美しさを感じたのかもしれない。たしかに、下界では人の影さえ萎れ、寂れてはいた。戦火の古い傷跡に新しい傷が重なり、殺し合いの時系列さえ定かならざるところも少なくない。

  こんなにも見事な空の下で、どうして男たちはかくも荒れ狂ったのか、と思わぬでなかった。それはそれ、人間というものの謎深いテーマではあるのだが、私がカブールでそこはかとなく、しかし、絶えず意識していたことは他にあった。それは、人が「見る」ということと「見られている」ということの関係の、思えば、血も凍るような怖さについてであった。

辺見庸「空とブルカと箱写真」『抵抗論一国家からの自由へ』毎日新聞社、2004年)

  

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 画像出所:柴田哲子の「雲外蒼天」