B‐15 憲法九条制定の舞台裏
元首相で憲法制定に携わった幣原喜重郎の次の言葉が参考になる。かなり思い切った発言なので掲げる。
「非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何か。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰である」(憲法調査会資料から)。
それに次のフレーズが続く。
要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら 買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。
(鉄筆編『日本国憲法 9条に込められた魂』鉄筆、2016年)
これは、第44代内閣総理大臣・幣原喜重郎への1951年に実施されたインタビュー録で、そのタイトルは『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について』である。発行は憲法調査会の事務局であり、上記の本はそのインタビューの内容を全文掲載したものである。インタビューアーは当時の衆議院議員平野三郎である。
マッカーサーもおおむね承知した草案を内閣総理大臣・幣原喜重郎が持って行ったところ、天皇はそれを受け入れるとともに「徹底した改革案をつくれ。その結果天皇がどうなってもかまわぬ」と言われた、との記録が残されている(『同上』)。
「天皇がどうなってもかまわぬ」とのヒロヒトの発言の意図や真偽や背景はいっさい不明である。(ただし天皇ヒロヒトが必死になって保身と天皇制護持に走っていたことは、内閣総理大臣・幣原喜重郎をヒロヒトが推していたとの説があることからも窺い知ることができる:筆者註)。
これで非武装方針が決まり、同時に当初連合国による戦犯リストに挙がっていた天皇ヒロヒトの名がマッカーサー元帥によって外されたのであった。
辺見庸は疑義を呈する。
「天皇制を維持するために武装しない、非武装を宣言するということだったのではないか。どうもそうとしか考えられないようなところがある。いわゆる先回りの形で〈死中に活〉を持ち(ママ)出して、日本占領連合軍の最高司令官で占領政策全般を統括していたマッカーサー元帥に驚きを持って(ママ)受け入れられたというわけです。おまえさん達の方から言うのかいと」。
出典:辺見庸講演会実行委員会編『4.3 辺見庸大阪講演会 怒りと絶望は、どのように表現するべきか―「戦争の時代」のたちいふるまいについて』辺見庸講演会実行委員会、20ページ。(講演会は、2016年4月3日に開催された)。
いっそ天皇制は滅失する方が良い。天皇を天皇制の呪縛からの解放することや、天皇制機能の大幅な縮減ではだめなのだ。天皇制がなくなることによって天皇制ファシズムへの回路を絶つこができ、そして人びとは個と民主主義の確立への助走を始められるのだ。
B‐14 報復は報復を呼ぶ。アベはそれを知っていながら、自衛の名のもとに「殺し」、「殺される」状況作りに突っ走っている。
軍備増強しても、日米安保があっても、集団的自衛権を行使したって、いざ戦争になれば国民を守ることはできない。自衛隊だけでなく官民挙げて関与させられ犠牲者は百万人いや千万人以上が犠牲になるおそれさえある。「殺し」「殺される」社会をなくすことこそ目指すべきなのに。
→北朝鮮もアメリカも「自衛」を唱えている。そのためには先制攻撃も辞さないと宣言し合っている。アベはそこに割って入り、日本も「自衛」のためにアメリカにくっ付いて北朝鮮を攻撃すると叫んでいる。そのあおりでダメージを受けるのはわれわれ国民である。アメリカは日本をスケープ・ゴーツにして本土は無傷かもしれないのだ。
辺見庸は言う。「憲法の前文と九条は、国家が宿命的に持つ暴力性を否定している」と。
にもかかわらず、アベは憲法9条1項、2項を残すが、3条に「自衛隊」を規定しようとしている。集団的自衛と安保で米軍と一緒に軍事行動するような自衛隊であるかぎり、自衛を騙って侵略・先制攻撃するだろう。憲法九条1、2項と矛盾したままでの3項追加は欺瞞以外何ものでもない。ましてや2項を削除して自衛隊を明記するなど軍国主義そのものだ。そんなことをしたら日本は軍国主義で敗戦したことをなんら反省していないことを世界に示すことになる。
→ 改憲論者は、現在の自衛隊は軍隊であり、憲法違反(九条二項に違反)だから、憲法で自衛隊という戦力を規定せよという。本末転倒である。憲法違反だから自衛隊を軍隊(侵略できる軍隊)ではない自衛組織に改編するというのが道理である。さらに言えば自衛そのものの新しい在り方をつくっていくのが立憲民主主義の基本であろう。
森達也は10年前に次のように発言している。
世の中には人権侵害の事例はいくらでもありますが、現実に即していないから人権尊重の理念を捨てろと主張できるのでしょうか。公明党が存在しているから、政教分離の条項は捨てなくてはならないのでしょうか。憲法は理念です。現実に合わせる必要などまったくない。(森達也「週刊金曜日」2006年1月6日号、のち『豊かで複雑な、僕たちの個の世界』作品社、2007年)
日本国憲法は、国際社会の恒久平和を実現しそれを牽引するという理念に基づいて「戦争放棄」「武力行使放棄」を謳う根本法であり最高法規である。理念や規範にとどまるものではない。ゆえに拙速に改定などするべきではない。
B-13 死刑制度が現存している限り、私たちは「殺人者」である。
「個体知」「民主意識度」は死刑制度を考えることで高まる。ひとり一人の民主主義の意識と具現。死刑制度を熟慮し、自らの「個体知」を磨くことが当面必要であると思う。
訳のわからないまま選挙が行われ、訳のわからないまま選挙が終わる。誰が死刑廃止論者であるか、死刑存置論者であるか、誰が傍観者で、誰が逃亡者なのかも知らないままに。人としての「根本」が、そして「民主意識度」というものがあるならば、それも問われる。
辺見庸は死刑制度について次のように述べている。
私にはときどき死刑制度というものが思考の試薬のように思えることがあります。あるいはリトマス試験紙のようです。死刑制度をどう考えるか。その答えのいかんで、その人の思想や世界観の一端どころか、おそらくはいちばん大事なところが見えてきます。(略)
この制度を肯定するのか、否定するのか。なぜ肯定するのか、なぜ否定するのか。これにしっかりと答えることは、私たちの生き方そのものに関わるのではないかと私は思います。(『単独発言』角川書店、2001年。256ページ)
私見として死刑制度について要約して書かせていただく。
人を殺した状況や動機、態様などはさまざまであるにもかかわらず、人を殺したものは死で以ってそれを償うべき、殺されたものは二度と戻って来ない、原則、殺人者に生きる権利はないという。結果、世間の応報刑論(主義)がまかり通っている。
しかし、いかなる理由でも国家による殺人(死刑)は認められない。
冤罪や誤判の恐れは完全に払拭できていない、死刑執行の現場実態と死刑執行に至る過程が不明である、死刑制度と社会秩序の保持は証明できておらず、そのためのエビデンスも存在しない、死刑制度を廃止し極刑としては無期刑でなぜだめなのか。
世界の141カ国で死刑が廃止(事実上の廃止を含む)されているというのに。
殺人を犯してしまった人に対して、あたかも社会の災厄として排除するかのように国は死刑を科す。そこには殺人というクライム(罪)が、当事者の意識構造に加えて、基本的に社会の罪業(根罪、政治・経済構造の欠陥、世間や組織の集合意識の偏見等)によって犯された面があるとの認識がきわめて希薄である。殺人者と殺人による被害者の主体は当事者であることに違いはないが、その両者の後背に「社会」・「所属」構造があり、それらの基底に内在する不条理がある。
さらに言えば人間は不完全な存在であるという視点からの考察が必須であると思う。 極言すれば罪業の根深い現代社会では、だれでも人を「殺し」かねないし「殺され」かねないのだ。それには例外はない。だからこそ「殺さない」、「殺されない」社会をつくるのが人間のそして国・社会の責務である。
国が国民を殺してはいけない。死刑制度があるかぎり、私たちは「殺人者」である。
東京拘置所内の刑場
出所:死刑執行の刑場を初公開 千葉法務大臣の指示:YOUTUBE(10/08/27)
(一部加工)
B‐8 新刊『沖縄と国家』について
辺見庸と目取真俊の両氏の対談、印象深かったのは目取真氏の次の発言である。
実際に毎日300人以上の人がゲート前に座り込めば、機動隊も簡単に強制排除できないし、資材搬入ができなくて工事は止まるわけです。本気でやるということは、効果を出すということですよ。ヤマトゥの偉い知識人としてではなく、一市民として体を張って座り込んで、機動隊に殴られて痛い目にあえば、観念論も吹っ飛びますよ。(目取真:66ページ)。
目取真氏は沖縄で20年以上闘い続けている。かつて横須賀闘争で機動隊にボコボコにされた経験を語る辺見庸も圧倒され言葉を失うほどである。
目取真氏の闘争を戦略なき戦術と難じることは容易である。また、組織的に大衆の支持を得ながら政治を動かしてこそ基地問題の打開の道が拓けるといえないこともない。だが、そのようにやってきて現に打開し得たのか。安保を心の底で容認したまま、在日米軍基地反対、憲法(9条)護持を訴えていてよいのか。
米国の世界軍事戦略の中で「捨石」的な位置づけの沖縄。日々上空に戦闘機が轟音を立てて飛び交い、自然環境を破壊する米軍。人道に悖る非道な犯罪を繰り返す兵士。イラクやアフガニスタンの戦場に比べて「リゾート」のような沖縄で米軍兵士は沖縄県民を見下している。日本の政府はそれを支えている。
このような情況を目取真氏は座視できないのである。身体が自然に辺野古に行く。それが彼にとってやむにやまれぬ「義」(内的必然性)である。笑ってなどいられない、冗談など言えない、おべんちゃらなどもっての外。それを偏狭となじるならなじれ。食や性、そして死。そして創の具象化(作品)による「拓」への欲求。これらを目取真氏は自ら押し込んで「義」に賭けている。そのように生きるのだとの強い信念がある。
「目取真さんはそこで根本的に、いかなる論者とも立場を異にしている。行動様式であり、行動様式の中に<身体>が入っている。むきだされた生身がある」。(辺見:44ページ)
「巨大な弾圧体制を政府が敷いて、無関心な日本人の大多数がその弾圧体制を支えている」という牢固なまでの現実があるなか、時にはテロリズムも排除しないとの思いも、目取真氏の掌編小説・小説では語られる。
個として、単独者としての「義」を「社会化」する道は考えるべき重要な課題であるが、だからといって「社会化」の過程での欺瞞の陥穽に陥っては元も子もないのである。(このことへの議論が大いにあってしかるべきだ)。
目取真氏はブログで、彼の日常での闘いを報告している。
96.軍隊の本性
司馬遼太郎は、生涯、天皇または天皇制について直接言及(論評)することを避けたが、高山彦九郎 ( 天皇を潜在的君主とする志を全国行脚して説いた )を、さりげなく好意的に評価する一文を残したりしている。
一方で、司馬にしてはめずらしく、先の戦争末期の陸軍大臣(阿南近畿)の発言や『鉄の暴風』(沖縄タイムス社編)を参照しながら、軍隊の本質を批判的に見抜いている。
現在、ニッポン政府は、国民のいのちと財産を守るという美辞麗句を並べ、自衛隊を実質的に侵略可能な「軍隊」として憲法に明文化するべく画策している。首謀者は例のアベである。
あの司馬遼太郎でさえ軍隊の本質が「自国の住民を守るものではなく、軍隊は軍隊そのものを守る」と述べているのだ。実際、敗戦直前の沖縄で、ニッポン軍が沖縄の住民を守るどころか逆に沖縄住民をスパイ扱いし、さらには村落から逃げるなどした住民を殺したのだ。
沖縄駐留米軍は沖縄の人々を決して守りはしない。日本駐留米軍は日本人を決して守りはしない。彼らは彼らの軍を守る、彼ら自身を守る、彼らの国を守るために駐留している。
司馬遼太郎は、また、次のような言葉を残している。
「日本人は均一性を欲する。大多数がやっていることが神聖であり、同時に脅迫である」。
現代消費資本主義下でのマス・マーケティングや脅しのマーケティングの対象としての消費者の姿がそこにある。金太郎飴のごとく「個」が溶解し、人びとが共同自己衒示的幻想へと駆り立てられていく。まさにこれがニッポンのファシズムの根茎に通じているのである。
最後に例によって辺見庸の見解をみてみよう。彼なりの目で国家の本質を的確に突いている。慧眼である。
要するに、ひどく見えにくい。国家の、そうした不可視性こそが曲者である。なぜ、見えないのか。それは、国家というものが、断片的な実体とともに、非実体である〈底なしの観念領域〉を併せもつからではないだろうか。換言すれば、国家とは、その図体のほとんどを、人の観念領域にすっぽりと沈みこませているのはないか。
極論してしまえば、国家は、可視的な実体である以上に、不可視の非在なのではないか。極論をさらに、進めてみる。国家は、じつのところ、外在せず、われわれがわれわれの内面に棲まわせているなにかなのではないか。それは、ミシェル・フーコーのいう「国家というものに向かわざるをえないような巨大な渇望」とか「国家への欲望」とかいう、無意識の欲動に関係があるかもしれない。
ともあれ、われわれは、それぞれの胸底の暗がりに「内面の国家」をもち、それを、行政機関や司法や議会や諸々の公的暴力装置に投象しているのではないか。つまり、政府と国家は似て非なる二つのものであって、前者は実体、後者は非在の観念なのだが、たがいが補完しあって、海市のように彼方に揺らめく国家像を立ち上げ、人の眼をだますのである。そのような作業仮説もあっていいと私は思う。
85.辺見庸 ×目取真 俊 : 対談
戦争へ向けて歩み始めている。
目取真俊 × 辺見庸の対談は、そのような情況かと思わされるなかでなされた。まさに時宜にかなった対談である。
だがこの対談、共同通信社の配信によって4月16日に沖縄タイムスと琉球新報に載ったものの、今のところホンド(本土)の各新聞には掲載されていない。大手新聞および地方紙は、この二人の見解をスルーすることが現政府に良い印象を与えるとでも判断(自主規制)したのか、それとも日々マスメディアに軽佻浮薄を意識づけられている読者には「受容されない内容」であると思ったのか。
一日も早くこの二人の対談を各新聞社が掲載することを望むものである。さらに言えば対談のすべてを何らかの形で公けにしてほしいと願う。
ラディカル(本質的)な視点からの二人の発言から数点抜粋する。だが、これら(すべて、もしくは一部)が、今のニッポンでは自然には受け入れ難いとする「空気」が現存する。そのことが「異常」なのだ。
下記の文章(枠内)については前後関係を「本文」で確認の上、読んでいただきたい。
(共同通信 / 沖縄タイムス 2017年4月16日)辺見庸氏X目取真 俊氏 対談「本土の視線、潜む欺瞞」-沖縄基地問題を語る。
対談記事の出所(抜粋元)。
「志情(しなさき)の海へ」2017年4月 19 日。真実の在り処。
②1945年2月に近衛文麿(元首相)が出した戦争終結の上奏文に昭和天皇は、もう一度戦果を上げてからでないと、と言う。沖縄は「捨て石」という判断がその時から既にあった(辺見)。
③沖縄も無垢じゃない。加害者でもある二重性を自覚すべきだ。ベトナム戦争でもイラク戦争でも基地を通じて米軍を支えた(目取真)。
④目取真さんは沖縄を人間身体と不可分の問題として考えている。(中略)例えば、沖縄が必要としているのは一人の米国人の子どもの死だという暗喩を込めた目取真さんの掌編小説「希望」。傑作です(辺見)。
⑤安保条約の問題を抜きにした9条擁護派は欺瞞だと思う(目取真)。
⑥沖縄の渡嘉敷島や宮古島、読谷村には慰安婦の慰霊碑がある。(中略)沖縄に置き換えれば、そういう碑をつくるなと国が口を挟むようなものだ(目取真)
⑦怒りの導火線が湿った状態がいつまでも長続きするとも思わない。かつてとは違う形の闘争が何らかの契機で爆発するときがあるかもしれない(辺見)。
⑧日本政府が(沖縄の)独立を認めることはあり得ないと思う。領土だけではなく、広大な領海も失う。そうなれば、自衛隊が出動し、県民に銃を撃つかもしれない(目取真)。
<余禄:私見>
領土・領海の拡大または独裁者国家の延命など、他国のせいにしながら国土・国民の防衛を言い募るニッポン政府。
侵略され攻撃される前に撃つこともあり得ると言う。自国だけでは心もとないから米国の軍事力を頼みにしつつ。
「かの国」が核兵器の保有と威力を顕示する核実験を強行すれば、米国は独裁者の暗殺さらには核攻撃を含む軍事力行使を断行すると公言している。米国まで核ミサイルが確実に到達する水準(力量)に「かの国」が達しないうちにである。在日米軍、在韓米軍に死傷者や犠牲が出てもやむを得ないと割り切る。ましてや、日本や韓国にどれほど犠牲が出ようと「織り込み済み」のことするのが米国の見解だ。その先には、中国の領海・領土拡大に対する反発・制御戦略の強化や先制がある。
安倍内閣は、クニのためならば、国民は犠牲を覚悟するのは当然であるとする。政府(国家権力)の役目は武力攻勢してでもニッポンを守ることにあると公言する。
だが、そもそも朝鮮分断そしてその後の朝鮮戦争は、軍国主義ニッポンおよびその後の米ソの覇権争いに起因したものである。今日の朝鮮半島の分裂は、休戦そして収束の結果、朝鮮民衆がやむをえず受け入れたものだ。日米の侵略の罪業が朝鮮半島の今日の状況を生み出しているのであって、そのことを頬被りし「休火山」のマグマを噴出させるがごとく穿つことは、二度にわたって朝鮮民衆を痛めつけることになる。
アメリカ・ファーストが自国(米国)第一主義であるならば、文字どおり軍事も自国防衛に専念し外交努力と国内問題改善に全力を傾注すればよい。シリアや北朝鮮には自力更生を間接的に支援するべきだ。ましてや権力者自らの支持回復のために戦略的に他国を介入・侵略することは、被侵略国や世界の安定には厄災以外何ものでもない。
国家の本質は暴力装置である。自国第一主義の国家リーダーたちが、その暴力装置に手を染めることを民衆として止めなければならない。暴走は金融資本主義で、もう、辟易しているのだ。
「 怒りの導火線が湿った状態がいつまでも長続きするとも思わない。かつてとは違う形の闘争が何らかの契機で爆発するときがあるかもしれない(辺見)」。
80.ある詩人の「剽窃」
辺見庸は10年ほど前にこんなことを書いている。
政界用語や本性を美化する日本会議の面々による胡散臭い用語。もし言葉に匂いがあれば「異臭」が立ちもめているといってもよいだろう。しかもそれをマスコミが大衆の「俗情」を察知しながらかき混ぜる。清冽な言葉が完全に滅し、不等価性をもった言葉も死んだ。人びとは、指示用語と商品化用語だけの世界で生きていく。
ところであるツイッターで次のような文言が目についた。詩人、河津聖恵(第53回H氏賞受賞者)のつぶやきである。
「言葉が人間を見捨てていく。人間が言葉を、ではなく」。まさにこの一文は現在の言語状況に対して的確な表現である。ニッポンや米国だけでなく、世界の国・地域にも当てはまるようになっている。
だが、この表現、45年前にある詩人が発したものであることについて河津は記していない。あまりにも有名なフレーズゆえに、記憶の中にあったものをつい使ったのか?それとも未必の「剽窃」(盗用)なのか?
河津聖恵は、その後、この表現が日本共産党機関紙「しんぶん赤旗」のコラムで取り上げられたことをツイッターで紹介している(2017年3月27日)。そのコラムを書いた詩人も、これが(この部分が)石原吉郎(詩人)によるもの(と同様の趣旨)であることについて全く触れていない。
その点、辺見庸は、このフレーズが石原吉郎によって発せられたと適確に書いている。(出典:『瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ』NHK出版、2012年、185-186ページ:他の著作の中でも引用している)。
「ふたたび、石原吉郎の言葉が浮かびます。・・・ことばを私たちがうばわれるのではなく、私たちがことばに見はなされるのです。ことばの主体がすでにむなしいから、ことばの方で耐えきれずに、主体である私たちを見はなすのです。いまは、人間の声はどこへもとどかない時代です。自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかりきこえる時代です。日本がもっとも暗黒な時代にあってさえ、ひとすじの声は、厳として一人にとどいたと私は思っています。いまはどうか。とどくまえに、はやくも拡散している。(後略)(「失語と沈黙のあいだ」『石原吉郎全集Ⅱ」花神社より)(下線は引用者)。
河津は、ツイッターにおいてではあるが、詩人として情報発信媒体を使い他者の重要な「言葉」を使う。それについて気づかないまま肯定的に評価する「詩人」もあらわれる。それが「政党新聞」にそのまま掲載される。
「言葉が人間を見捨てていく。」(河津)「ことばの方で耐えきれずに、主体である私たちを見はなすのです。」(石原)。この二つのフレーズが実質同じであることは明らかである。
詩人という言葉をいのちと同じくらい大切のするはずの人、最も言葉を創造的に扱うはずの人が、このありさまである。(商品経済に心を売った谷川俊太郎もしかりであることは以前取り上げた)。
言葉が「詩人」を見捨ててしまうことにならないように願うばかりである。
* 付記
後日、河津聖恵氏から「剽窃」を認めるメールでの回答があった。しかし、反省の言葉や、善後策について何も記されていなかった。