辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

B -48 辺見庸の自己欺瞞 ー『コロナ時代のパンセ』をめぐってー

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 辺見庸は不如意な老体で命を長らえている。作家としては「出がらし」作品や厭世観を吐露する雑文を綴るだけの日々。直近では『コロナ時代のパンセ』。かつての辺見ならば、こんな作品を出さなかったはずだ。新型コロナが発生してから述べている部分はほんの少ししかない。まさに羊頭狗肉。しかも書下ろしでないことさえ、この本の出版に当たって辺見のブログ等でも知らしていない。月刊「生活と自治」(生活クラブ連合会)での「随筆」の焼き直しなのだ。

辺見にも生活の糧が必要なのだから、それも致し方ないのだろうが、晩節を汚してほしくない。さらには、変な小細工はしてほしくない。天皇制における天皇の非人間性(制度による呪縛)は糾弾するものの(「平和的天皇」VS「好戦的首相」)、権力による天皇自身の被利用の罪については筆が急に鈍る。そして、かつて明仁天皇横浜駅ちかくで群衆の一人としてみた時、辺見が思わず天皇に手を振ったことについては一切触れていないのである。

 

この件について再録しておこう。

天皇は、私から視線を移さずに、片手を軽くうち振り、「あっ、どうも」という調子で、首をこくりと小さく下げた。私も、つられて、こくりと会釈した。同時に、右手をズボンのポケットからそろりとだして、ベルトのあたりまでもちあげ、行きすぎる天皇の方向に、汗ばんだたなごころを開いて、ためらいつつ、一、二回左右に動かしてみたのであった。(中略)
 横浜駅西口前での、ゆくりなき出会いで、私は天皇昭和天皇ではなく、いまの天皇である)に、なにがなし、好感をもったのである。
辺見庸『永遠の不服従のために』2002年)

 

これはいったいどういうことなのか。天皇アキヒトについ小さく手を振った辺見庸。彼にすれば不意に「汗ばんだたなごころを開いて、ためらいつつ、一、二回左右に動かしてみた」のであり、「なにがなし、好感をもった」のである。それを批判することは人情の機微、自然な情動をも否定することだとの反論があるかもしれない。

批判・反批判があることは世の常。ここではそのこと自体については述べない。一つだけ次の文を示しておきたい。

日本人は日常的に天皇制とそのイデオロギーにとり囲まれているので、それらとどのように向きあうかが、その人の思想性の真贋を測る物差しだと思います。天皇制を肯定し、皇室に親近感をもちながら侵略や差別、人権侵害、不平等と闘いぬくことはできません。天皇制と侵略、差別、人権侵害、不平等は同根だからです。

(大道寺将司『死刑確定中』太田出版一九九七年)

 

大道寺将司が詠んだ俳句のなかに、「君が代を齧り尽せよ夜盗虫」(『棺一基 大道寺将司全句集』太田出版、二〇一二年)という句があることは前述した。「虹作戦」が頓挫し、三菱重工業ビル爆破で意図と異なり多数の死傷者を出してしまい、死刑判決を受けて獄中で詠んだ俳句である。

 大道寺将司が、天皇制の悪、革命をみつめる目はずっと変わらない。そのような趣旨のことを述懐していたのは辺見庸自身である。(中略)天皇制および天皇についての鋭い批判はどうなったのか。ためらいつつとはいえ、信じられない辺見の挙動である。今は亡き大道寺将司がこのことを知ればきっと嘆き悲しむにちがいない、心が壊れる思いをするかもしれない。

註:大道寺将司の行為は内的必然によるもの(真為)であったと考えます。なお、真為とは、多分に当人の客観状況の洞察にもとづく主観的なものではありますが、日々の暮らしや労働における行動とは異質な、人としての「やむ得ざる行動」「必然的な動機に発する行動・行為」です。