辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

B-24 正義の戦争(just war)

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     一定の条件をクリアすればjust warとして許されるという考え方がある。

 例えば、「最終手段または自衛行為として、そして行使される力の規模が適正でかつ可能な限り民間人が暴力にさらされない、といった制限条件下での戦争であればjust warである」とされるのである(オバマ前大統領の<ノーベル平和賞受賞記念講演>での言葉)。

 

 だが、そんなことを言っていたら戦争なんかできやしない。だから「国民の生命と財産を守るため」、さらには「世界の平和実現のため」であれば、正当な(正義の)戦争として許されると主張される(これなどは何とでも解釈できる条件だ)。

 その結果、戦争の正当性を判定する開戦法規として用いられてきた主な6基準や、キケロの「I prefer the most unfair peace to the most righteous war.」等は、「現実によって引き裂かれてゆく」のである。いかなる優れた言説や高邁な理想もそれから逃れられない。

 

 実際「聖戦」という美名で人類は多くの戦争をしてきた。それらは想像をはるかに超える悲惨をもたらした。そして戦争の愚かさを反省しながらも、戦争を人間ひいては国家や人類の業(ごう)として容認し、その罪業の問題性を糊塗し溶解してきた。

 米国のトランプ大統領は戦争における物理力に匹敵する「圧力」をかけ続ける。かつて米国が朝鮮半島を分断した張本人であることの反省もなく、北朝鮮への軍事攻撃をいつでも行うと高言している。本音は、国内政治の不安定さを緩解させるべく、また中間選挙目当ての方策として、さらには軍需産業界へのアリバイと振興助成のためにもかかわらずだ。

 危ないのは米国の経済的な逼迫であり、そのリカバリー策の一つとして核弾頭が「撃た」れる。見極めるべき要点は、fragileな金融経済による繁栄の崩壊がいつ起こるかである。それが起こればなりふり構わず戦争を仕掛けてくる。

   

  そもそも多くの政治家は「戦争」を心底では望んでいる(としか思われない)。平和を貫くことの大切さを言いながら彼らは本来的に好戦欲動に突き上げられているのである。

 ノーベル平和賞を受賞したバラク・オバマもその一人であったのだ。

A non-violent movement could not have halted Hitler's armies.  Negotiations cannot convince al Qaeda's leaders to lay down their arms.  To say that force may sometimes be necessary is not a call to cynicism -- it is a recognition of history; the imperfections of man and the limits of reason.

   (Remarks by the President at the Acceptance of the Nobel Peace Prize)

 

 これら政治家に共通しているのは権力者の醜悪な加害者性であり、常人の生存意識の完全な欠落である。ましてや品行、品性の劣悪なトランプ大統領なんぞ、不動産取引と開発で泡銭を稼ぎまくった習性から、「浮利」のためならば戦争だって利用する政治屋なのだ。(ニッポンのアベも、せいぜい「国への献身、そして大義への献身」を空しく言い募るのが精一杯の政治屋なのである)。

 

 辺見庸の発言を記しておこう。

 

 歴史における「正義」とはなんだろうか。プラトンが「正義」を国家の備えるべき至高の徳としたことはずいぶん示唆的だ。「正義」は昔もいまも、おおむねナショナルな範囲内で語られることが多いようだ。ナショナルな「正義」の意識は「大義」のサイズまで膨張することがしばしばあり、その延長線上には「正義の戦争」「聖戦の大義」というのがある。

 一方、ソフィスト派に属するトラシマコスが、「正義」とは「強者の利益」と定義したというのも興味深い。どうやら、「正義」には常に国家と強者と闘争がつきまとうようなのだ。弱々しい個人にだってそれぞれの、そしてときどきの「正義」の観念があるのだけれど、国家の絶大な「正義」によって手もなく押しつぶされてしまうのが常である(『いま、抗暴のときに』2005年)。

 

 身体を賭けた多様な抗暴の戦線を展開するしかない。

 (辺見庸は、これに対しても「な-んちゃって」と言うのだろうか)。