辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

B-44  NHK /Eテレ “在る”をめぐって

  

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 辺見庸/出演(2019年1月13日放送)を視た。その感想を記しておこう。

   

 いわゆる社会的弱者は自ら「無くてもよい」人間になったのではなく、初めから「無くてもよかった」のでもない。その問題提起はあってもよい。だが、ことの要諦は本当にそこにあるのか。

  また、“在る”ことをめぐる「おためごかし」の正論を受容・容認するのか、それとも排除するのかを問うことが重要な論点なのか。その背景に切り込んでほしかった。

 詩的・文学的な観念とレトリックに埋没し厭世感覚に漂っていること自体が、視聴者を限りなく「末枯れ・収縮」させることに繋がるのではないか。ふとそんな思いがよぎったのだった。

 

 現代社会は、比喩的な表現をすれば、毒に侵された有機質と没価値の無機質が渾然一体となった社会である。社会的弱者を差別し、抑圧し、または使い回しの末に無用な人間は排除する。弱者や無用な人間は人間として見做さず「無くてもよい」人間とするのが消費資本主義社会の特質でもあり本質でもある。

  逆に「在ってもよい」人間とは役に立つ人間である。社会にとって有用な人間ないし効用(期待効用を含む)のある人間である。具体的には、金を儲けさせてくれる人間、金を使ってくれる人間、他者の生(生命・生活の機能)によりよく作用する人間である。それらを備えていない人間は人間とは見做されない。

 しかも、強者がそのように見做すだけでなく、多くの人びとが自他ともに「無くてもよい」人間になってしまったら社会的に「廃棄」されても仕方がないと思わされるようになってしまっている。

 

 人間とは何か,、人間の存在とは何かが問われる。何らかの社会的有用性(効用)が欠如し非効用であるとされた人間、さらには意識を欠いた原生命体のような人間は「無くてもよい」人間なのか。 

「存在の始原についての深遠な考察」がそこから始まる。否、そこから始めなければならないのだ。

 

荘子(荘周)が蝶になって意のままに飛ぶ夢を見た。夢から覚めるとふと思った。自分は蝶の夢を見ていたのか?それとも・・・蝶が荘周になった夢を見たのか?

これは『荘子』に出てくる寓言の一つである。この話の根底には万物斉同の思想があることは言うまでもない。

 

世界の次々に変化する絶望的な情況に、辺見庸は精神の内奥で鋭く感応しているのだが、辺見が見る夢はどんな夢か?彼は即座に「蝶になって飛ぶ夢なんか見るはずがない」と一笑に付すことだろう。そして「そんな夢を見ること自体を俗流観念論として拒否する」と言い放つことであろう。

 

「人間という生きものは、もともと眠っているときのほうが基本状態ではないのか。そして、人間という生きものは、は、目覚めている時間が、意識が働いている時間が多すぎるようになってしまった生きものではないのか。生きものとして変態的な異常な生き方になってしまったのではないのか」(野口三千三)。

 

野口三千三が言う「原初生命体としての人間」なんぞは、辺見は死ぬまで容認しないであろう。「意識的自己というのは、生きものにとってむしろ特殊な存在状態であって、非意識的自己とは、その特殊な意識的自己という状態を除いた他のきわめて広いすべてをふくんだもの」と言ったって、意識をもち、それを発達させてきたという是非もない事は無視できないからだ。

 

存在論について辺見庸は広く深く考え続けてきた。一人ひとりの主観は畢竟、冷徹な客観(その構造の矛盾・不条理)に目を向け指弾してきた。だが、辺見庸自身の「存在論(主観)」示しえていない。そして存在するものの全ては客観的で特殊・個別であるとともに、「存在するものの全ては主観であり特殊であり個別である。特殊な個の内側にもぐりこみ、それに徹したときだけ、いわゆる普遍というもの、客観とよぶものをとらえることができるのだ。主観的でもある(野口)」との視座をもちえなかったのである。