辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

B-19  受傷者の表現

f:id:eger:20210621131723j:plain


 

 「ものを書くということは、俳句であれ詩であれ散文であれ、受傷が前提にあるのだと思います」。辺見庸はそう言っている(『明日なき今日 眩く視界のなかで』2012年)。

  辺見が、雑誌『本の旅人』(KADOKAWA)に現在連載中の「月」というタイトルの詩的散文を読んでいるとそのことを痛感する。

 この「月」は玄妙な語り口調で書き進められていて、辺見が傷つきながら実際に起きた出来事を創作と主観で昇華しモザイク状に組み込んでいることに気づく。

  元新聞販売店経営者の焼身自殺(2017年12月21日)もそのひとつである。これによって辺見は「想念が悩乱となってひろがり、回想をかきみだされた」のだった。「世の現実」によって。

 この事件が、日本の新聞業界に巣食う不条理な慣習(「押し紙」など)に起因した新聞販売店主の苦悩の末の自殺であることは、焼身自殺の場が日本経済新聞東京本社ビルのトイレであったことからも推察される。四半世紀のあいだ共同通信社に勤務していた辺見庸は、これをよそ事として受け取ることができなかったにちがいない(全国の新聞社に記事配信している共同通信社も「加害者」から免れ得ないからである)。

 なお、「押し紙」とは、新聞社が新聞販売店に講読読者数を大幅に超える部数の新聞を買い取らせることである。

  新聞業界のこの「暗部」を見て見ぬふりしている業界人と読者。そんな状態で「良識」が育まれ保たれるはずなどない。(辺見は作品「月」で主人公にそうつぶやかせているように思われる)。

 この作品「月」では、そのあとサイゴンで親米政権に抗議し焼身自殺した僧侶のこと、そんなことがあってもその後「現実」が人びとの意識と行動を引き裂いていくこと、焼身自殺を自ら身体感覚で捉えることなどが綴られている。

 

 辺見庸の晩年の疲れた心身及び状況への絶望意識を基に、彼の身辺に次々迫る(生じた) 出来事が挿入素材として組み込まれ展開される。その巧みなメタフィクションのような表現が読み手を引き込む。それがこの小説「月」の魅力であると言ってよいだろう。