辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

B-28   辺見庸、「執筆中断(放棄)」の悩乱

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 辺見庸が、雑誌に連載している作品(『月』)の執筆を中断するという。(2018/ 5/ 29)

 

 もう下手なものを書くことはない。(略)第8回までつづけた『月』の連載をやめることにした。読者には申し訳ないとおもう。

 その理由として、「ほとんどのことについて感覚があわなくなってきた。あわせる気力もなくなりつつある」と言うのである。

  

 ただし、この連載中断はいわゆる絶筆とは少し意味合いが異なる。  

 作家が一切の執筆をやめるのが絶筆である。これには大きくは二種類あり、作者の死亡や重篤な病気によることが多いが、そうではなく、抗議・意見表明または反省等の意味を込めて何らかの宣言を伴う絶筆(この場合は「断筆」とい呼ばれたりする)がある。なお、「断筆宣言」しても執筆が再開されることはある。谷川雁筒井康隆などでみられた。

 絶筆以外では、突如、連載している作品を当該作者が執筆しなくなることがある。谷崎純一郎の『残虐記』などはその例である(作品は未完成のまま)。この場合でも、外部からの抗議によるものと、作者本人の自主的な判断(思想・信条)による中断がある。

 今回の辺見庸の場合、今のところ執筆中の特定の作品の中断であり、もちろん絶筆ではない(はずだ)。

 

『月』は血塗られた荒れ野のふうけいを、たたなわる欺瞞のヴェールを剥ぎ剥ぎ、もうやめてくれと悲鳴をあげられるまでつづけるつもりであった。しかし、悲鳴はどんな悲鳴だったか。よくわからない、こんなんじゃ売れません・・・ではないか。

 

 出版社の編集者もしくは近しい友人等と、どのようなやり取りがあったのかはわからない。やり取りがなかったのかもしれない。いずれにしても辺見は10回くらいの連載になるだろうと言っていた。その直前の(8回での)中断なのである。

 こんなことを辺見は以前ブログで書いていた。 

 またなぜ『月』にむきあっているのか。ギブアップしないのか。ギブアップできないのか。わからないようでいて、どこかで得心している気もします。年々読者を意識しなくなっています。それでいいとおもいます。

 

 しかし、今回の突然の執筆中断(実質は執筆放棄)について次のように記すのである。 

 わからぬというものに、無理にわからせてやるほどおせっかいではない。あきらめることだ。あきらめるべきである。

  

 辺見の「内的意思」はここで瓦解する。自己の作品を市場経済・消費資本主義の中に埋没させずに書くと決めたからにはその意思を貫徹しなければならない。創造の業(ごう)はニヒリズムを超えるのではなかったのか。

 肝要なことは、マス社会での「成功」「受益」をいつまでも引きずらないことである。 辺見庸自身もそのことについて、かつて述べていたではないか。それを実践すればよいだけである。 

 

 これからは書きたいことだけを書かせてもらう。百人支持してくれればいい。いや、五十人でいい。百万人の共感なんかいらない。そんなもん浅いに決まってるからね。

(『記憶と沈黙 辺見庸コレクションⅠ 』2007年)

  

<以上、辺見庸の誤謬(その4)要旨>

 

追記

 執筆中断を表明してから10日後の6月8日、辺見庸は、ブログで『月』の執筆を続行することにしたと書いた。作家としては当然のことであろう。それにしても、あの執筆中断(放棄)の表明はなんだったのだろう。友人たちからの励ましがあったことを理由としてあげているが、今回の辺見の「言葉の耐えられない軽さ」、そして彼の混迷ぶり。なんとなく「遣る瀬なさ」を感じさせる一件であった。