B-31 彼我の狂気
相模原事件の植松聖被告は「意思疎通がとれない人間は安楽死させるべきだ」と言った。それは生まれてくる人間の生命の選択操作にもつながる考えだ。
優生思想には歴史があり、心の深奥でそれを肯定する者の存在を認めざるを得ないばかりか、人びとの心にひろがり、やがてそれは「社会や国家に役立たない者の排除、抹殺」の思考と行動となる。背景には、国家(権力による暴力装置)が有無を言わさず人びとを追い立てていく仕組みがある。植松聖被告によって殺された施設の入所者たちは実はそのようなニッポン国によって殺されたも同然である。
辺見庸は記す。
「わたしたちはもっと狂うべきだ。そして、もっと狂うはずである。さらに狂わなければならない」(2018年7月13日、ブログ)。
ここで示された「狂」とは何なのか?
若者に問いかけると「ふつう」との答えが返ってくる。いくつかの質問にも答えは同じく「ふつう」。当人は至って平然としている。
狂が普通の顔で蔓延している。普通の中身がすっかり狂に変質している。そのことに気づくと「ふつう」の中で生きられなくなってしまう。
精神の活動域も狭くなる。これでは此方での狂気に耐えられないから、あちらで本来の生体を確認するべく思い切って跳躍するしかない。
だが、あちらの世界は此方での狂を反照していているのだった。しかも、容易には引き返せない。引き返したとて絶望の淵に落下するのが関の山だ。
では、別の世界はどうなのか。超然とした世界を捜す。何とか当たりをつけて見つけ出すがすでに結果は出ている。狂を超越しているとされる世界もまた狂が仮面をかぶっているだけなのだ。それでも一時は超然としたふりを決め込むが長続きはしない。
普通の顔をした狂への「憎悪と絶望」を吐き捨て続ける日々がつづく。