読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

94.大学生という群体

 

                f:id:eger:20170518092153j:plain

 日本の大学生(学部生)約256万人のうち、積極的に勉強が好きで、日々、興味深く授業を受け、教員と話したり、学生同士で共同研究している学生はどのくらいいるのだろうか? ふと、そんなことを思ったが、自問自答の結果は「きわめて少ないだろう」というものだった。

 もちろん、理工系と人文・社会科学系では違うだろうし、医薬看護系、芸術系となるとまた違うだろう。大学院では、さすがに勉強嫌いとは言っておられないだろう。それにいわゆる大学間格差もますます顕著になってきている。

 

 辺見庸が大学生についてこんなことを書いている。

 彼らは私たちが若かったころより抜け目なく物事をよく知っていますが、その知識は表面的で、必ずしも深い知識であるとはいえません。しかし、まだマスメディアのあたえる影響の答えはでていません。また若者たちはメディアによって完全には破壊されてはいないと思います。だから今後、若者がどれだけ自主性を持ち、また、暴れ馬のようなマスメディアのもとで成長していく若者たちと私たちがどこまで対話しつづけることができるかという点が非常に大切です。

(『不安の世紀から』角川書店、1997年、のち角川文庫、55ページ)。

 

 大学などで学生たちと話すと少し胸が痛む思いをするのですね。彼らは非常に敏感な心の共鳴板というのでしょうか、感じとる力を持っているのに、それを隠すのですね。

 (『同上書』95ページ)。

 

 学生課の職員から「あなたの学生時代の悩みと、いまの学生の悩みはまったく違う」と言われました。「いまは学内のセクハラが問題なんです」と。

(『国家、人間あるいは狂気についてのノート―辺見庸コレクション4 』毎日新聞社、2013年、147-148頁)。

  

 大学生の学力低下に関する一般的な調査はあるが、学力に関する踏み込んだ調査結果にはお目にかかれない。ましてや、学生の本音や実態に迫ったリサーチはない。

 「なんとなく大学に入った学生」「仕方なくその大学に入った(不本意入学の)学生」などは、勉強が好きではないのだ。保護者に高い授業料を払わせ、ろくに勉学するでもなく、時間はアルバイト、趣味、部活やサークル活動、交遊のために使われる。恋愛の一つや二つはする。小さな旅行もする。そして、何とか卒業単位をとって大卒の証書を得る。できれば早く就職先から内定を取っておく。これが学生生活のすべて。

 読書をすればするほど、考えればかんがえるほど諸般の「奥深さ」を知るよろこびも知らないまま4年間が過ぎる。また、自らが「社会問題」の当事者になることを避け、「当事者」になって悪戦苦闘することの意義を体感する機会も得ていない。

 受験思考を刷り込まれ、探求心や構想する力が身についていないし、批判力も不十分で歪んでさえいる(その典型は森友学園問題で浮上した「海陽学園」にみられる)。

 結局、力の論理もしくは感覚での判断に依拠する姿勢が身についている。ハウ・ツーや要領のよさで対処する。

 大学教員にも責任がある(研究または教育面で一流教員は2割程度しかいないともいわれる)し、社会(主に企業社会)も高等教育や人間教育の何たるかについては関心が薄い。企業にとって学生は、一部がテクノクラート、その他大勢は「歯車」であればよいと思っているのだ。

 

  大学格差と学生  

 一部の有名大学(実質はブランド大学)の学生は好むと好まざるにかかわらず勉強する。受験戦争の勝者意識があるから、大学での勉強がいやになったら周囲の多くの「一般的学生」を見て優越感を感じて奮起しなおす。少なくとも自分は勉強が嫌いではないと思い込む。この種の学生は社会に出ていわゆる出世コースに乗るのかもしれない。小さいころから受験勉強に無批判な「良い子」であって、問題意識を自覚しても深入りせず、思考停止している。本来、競争社会の「ペースメーカー」でしかないのだが、なんとなく各部門の「長」の肩書だけがついてくる。

 そのような学生以外の学生たちは、大学というレジャーランドで、なんとなく時間を過ごす(近年では大学でもろくに楽しむことすらできずレジャーランドでもなくなりつつあるが)。

 午後、友達と会って「おはよう」とあいさつし、講義中は教室の後ろのほうに座って居眠りし、または密かにスマホをいじり、時々私語し、さもなくば「β波瞑想」で時間をすごす。あたかもターミナル駅のコンコースか何かのように大学に寄ってきて、2,3コマの授業に出て、時間が来ればアルバイトに精を出すか仕方なく帰宅する。

 コンビニ、ガソリンスタンド、飲食店など、深夜や早朝までバイトする学生。特に何もない日は、自宅や下宿で終日、音楽やゲームで夜遅くまでだらだらと時間をすごす。

 それでも単位だけは取らなければならないからレポートや期末試験のための講義ノートは融通しあう。しかしこれならまだましなほうで、一部の学生は「登校拒否」「引きこもり」で大学に行かない。大学も安易に単位を与えない。すると1、2年次の単位修得数が一桁という学生もでる。その結果留年する。保護者はそのかん授業料を払い続ける。

   大学で学ぶこと                                              

 このような日本の大学生をどのように考えればf:id:eger:20170523074911j:plainよいか?時間浪費の4年間。「どうせ厳しい実社会が待っているのだから、その前に自由にさせておいてもよいのでは」、「眠たい授業でも黙って受講する癖をつけ、大学教員という変な人種がいることを認識させ、アルバイトで少しは実社会を垣width="245" align="right"間見させるだけでも意義がある」、「今に始まったことではない。戦前・戦後、日本の大学は多かれ少なかれそうだった」との声も聞こえてくる。

 大学自体にも大きな問題がある。保護者もいいかげんだ。何よりも、これを座視している社会や国に問題がある。受験競争と就職先による「大学格差」は大学のランキングとして示される。どの大学を卒業したかによる新しい「身分制度」が出来上がってしまっている。それによって似非リーダーが多く輩出される。一方、差別される人間が出る。フォロワーでしかないと一生思い込む人間を生む日本の大学制度。社会人になる手前の青春期、本来、すばらしい時期であるはずなのに。 それを寄ってたかって踏みにじっているのではないか。 

 勉強嫌いな学生には大きくは二種類ある。中学、高校から勉強嫌いな学生であり、残りは大学に入ってから何となく嫌いになった学生である。小さいころから勉強嫌いの大学生は、本人の学力面の資質・才能で劣ること、本人の心がけ、家庭環境をはじめとする教育環境などで勉強嫌いになると言ってしまえばそれまでだが、本当にそうなのだろうか。何かのきっかけで勉強嫌いになってしまうことが多いのではないか。

 その何かのきっかけが問題である。「家庭でがみがみ勉強せよと言われ続けて切れてしまった」、「教師や親の何気無い言動にショックを受けた」、「鋭く尖ったな感性で挫折し立ち直れず迷路に入った」、「勉強ができないと思い込まされてしまった」などさまざまである。家庭や学校で何らかの「手助け」があれば勉強嫌いにならなかったかもしれないのだ。塾や学校のテストで「自分はだめだ」と刷り込まれる生徒が、それを強く意識し続けると勉強嫌いになる。そういう生徒が何となく大学に入学して一念発起するか、偶然、学ぶことの楽しさを知ることもあるが、割合としては少ない。

  なお、大学に入って勉強嫌いになるケースでは、不本意な大学への入学、受験勉強からの解放による緊張感の消失、または勉強とは何か学ぶとは何かに疑問をもち、その解答が見出せずに意欲を喪失するといったことなどがその主な理由である。ひどい状態では無気力、放蕩、神経・精神障害自死に追い込まれることもある。

 せいぜい「有名大学卒」どまりという学生も少なくない。

 

  新たな視点からの教育

  そもそも勉強とは、勉め強いることだ。勉強とは「読み書きそろばん」であり、それを勉強の基礎とするのだろうが、現代社会における学校での勉強とは何か?さらには、大学における勉強または学問とは何か?

 近代国家での教育は、国家運営に有用な国民を確保することが目的である。よってそのために必要な最低限の勉強を国民の義務とするのが義務教育であり、国家への発展をめざして一層高水準な高等教育を半ば義務教育化するために高校や大学がある。

 だが、全国民が学問を好きになることは不要で、一部の有能な人材と、多数の質の良い「フォロワー」がいればよいとされる。ということからすれば、勉強嫌いな大学生が多くても、一部の研究重点大学やエリート養成大学さえ確保していればよく、その他は一定の「品質」さえ確保されていれば大きな問題にならない。これが国家運営から見た教育である。

 

 一方、民の視点から見た教育とは何か?その答えは、結局、人間一人ひとりの資質を開花させた豊かな人生を送ることに教育の目的があり、学校教育がその基礎となりきっかけとなる。しかし、学歴・学校格差によって、国民の視点からの教育が等閑にされているどころか「壊滅」しているのが現代日本の教育である。それではいけないと、起業やベンチャー輩出のための教育や生涯教育・社会教育が唱えられ、そのための取り組みや機関などが整備されたり、オータナティブ学校運動が起こりつつあるものの、競争社会や学校教育制度が確固たるなかで大きなムーブメントになりえていない。

  現実の経済・社会システムの中で国民視点からの教育が実現されなければならず、小学校から大学までの学校教育制度の改革と社会教育の充実が必要である。そのためには、いかに国民視点からの教育を実現するかを基本においた改革を行うかが課題であり、突き詰めれば、国家による教育統治の廃止から始めなければならないだろう。

 いまや日本の教育は自由なシステムに委ねても混乱しないまでになっている。受験競争という「ラッツレース」をさせて青少年の自律・自立精神を貧困化し、新しい身分制度を助長する現行の教育制度、学校制度を廃棄するのである。

 「協育運動」の理念にもとづく学校や「自己教育」重視学校など、ユニークな学校が、そのなかから多数生まれることを期待したいものだ。世界最古のイタリア・ボローニア大学がどんな大学であったのか、緒方洪庵が江戸時代に大坂で開いた「適塾」などを調べてみてもよいのではないだろうか。

93.恥じなき国の

                       f:id:eger:20170510153430j:plain

  

 恥じなき国の恥じなき時代に、「人間」でありつづけることは可能か?と、辺見庸は問うています。厚顔無恥で軽薄な者たちを見聞するにつけ、この辺見の指摘が胸に突き刺さります。
 

 罪の文化も恥の文化も、本当は自己の目、自己の声に照らして自ら問い答えることによって成り立つものですが、実際はそのようにはなっていません。

 自己が横にズレ置かれ(疎外され)、罪の文化は神の目を、恥の文化は世間の目を意識したものになり、社会秩序のためのいわば統治手段の用具(概念)になっているのです。

  

 ですから、恥じなき国の恥じなき時代に、「人間」でありつづけることは可能か?との問いは、人が個として自らの内声に耳を傾けまたは実相を見つづけることによって、意識を対象化し欺瞞なく内的宇宙で交信できるか?と言い換えてもよいのだと言えます。

 そこには罰する神も非難する世間もないからこそ、個が求められるのです。煎じ詰めると自己のNot(Notwendigkeit)としての義を裏切ることができるのかということになります。

 

 多くの日本人が、自らの加害者性と愚鈍とを自覚しないまま、マスメディアと風潮に洗脳され、時代に棹差して異口同音の虚言を口にしています。

 それらを見せつけられては欝状態になるのも自然なこと。神経症もいわば時代の公傷だと開き直り笑い飛ばす。神経症統合失調症も治癒することを第一義にしない。ありのままに「生きる」。北海道浦河のベテルの家の「ゆるゆるスローな」「普通に生きる」人々は立派です。

 

 思い起こせば、最大の戦犯である天皇ヒロヒトが自決せず、処刑を免れ延命したことが、戦後の日本人の精神構造を腐敗堕落させました。 

 そして物質的豊かになったと錯覚し、モノの亡者に皆が陥って精神の自立を喪失してしまったのではないでしょうか。

 

 

92.脱・日本的経営の再考

 群体として惰性で生きることは生きるとは言えず、個人として個体知で生きてこそ生きるということである(辺見庸)。

 

 個力の強化、個体知は産業界おいても求められる。

 中小企業のなかには、産業経済の発展・成長の先駆的役割を担う企業があり、マイクロ企業のなかにも同じような企業がある。それらを政策的に支援することは有意義なことである。

 

 一方、中小企業政策の基本は「所得と資源の再配分」である。大企業と中小企業、ましてやマイクロ企業(10人未満の企業)や個人事業(自営業)とでは、資本、設備、人材、技術、情報、さらには交渉力においても厳然とした格差がある。そのことをなおざりにして、大企業と中小企業さらには自営業等も同じ事業体だからリスク負担や競争は同等にせよとの考えは、経済活動をいびつになものする。  

f:id:eger:20170510125350j:plain

  この兆候がはっきりと表れ始めたのはアメリカ資本主義の悪しき面が蔓延し始めた1980年頃からである。

  しかも、産業界は日本的経営の功罪における「罪」の払しょくに走るだけでなく「功」をそぎ落としながら突っ走った。そのうえ、為政者たちは金融資本経済が実体経済を愚弄する経済へと誘導したのだ。

 その結果、沈滞感が漂う現在の日本経済を生んだ。産業経済の基盤を構成する「個」を殺いでしまうことによって、成長の根元が脆弱化し不活性になってしまったのである。そして硬直した産業の基幹システムでは排除システムが作用し、巡りめぐって国のプライマリーバランスを崩し続けたのである。

 

 資源の最適ミックスは、資源活用のパレート最適化とともに適正な再配分システムを必須とする。これは人類の知恵の一つである。権力と資本によって格差を拡大し民衆の暮らしを蔑ろにすることは人類の厚生福祉にとって罪である。

 

 にも拘らず、為政者や評論家たちは、産業基盤の脆弱の実体を直視することなく、資本にすり寄り拝金主義に陥って厚顔無恥に強者の提灯持ちに走った。

 いよいよそれを大転換する時が来た。ベンチャーやICT、海外進出そして成果主義ばかりを言挙げしている時ではない。

 マイクロ企業・自営業への施策こそ確立しなければならない。まず一歩として、それらに対する大幅減税、不当取引完全撤廃、労災保険の全面適用、不当行為への代表集団訴訟制度の新設、連帯保証制度の完全撤廃などを早急に実現するのである。

 民主主義は産業界の民主主義によって完遂されるのであり、21世紀は、大規模至上主義経済から小規模事業者が主役になる経済を展望することが求められているのだと思う。

 

 

91.異常の有理

f:id:eger:20170510062445j:plain

  戦争という名で殺戮しても強者(勝者)は処刑されない。ブッシュ親子やオバマは今ものうのうと生きている。彼らにとって外交戦略は物的暴力にすぐ転化してしまう。

 アメリカに追い込まれフセインは処刑され、ビン・ラーディンは暗殺された。パワーポリティクスからの報復による殺人である。

 トランプも金正恩もいわば権力抗争の「あだ花」なのだが、処刑されたり葬られないために勝つことだけに執念を燃やす。

 

 本質的に「憲法番外地」である企業社会(佐高信)でトランプは成り上がり、金正恩は祖父から続く「泥沼のような」因縁によって生きている。これらが彼らの異常の有理という抗弁になりえるのだが、「異常な状況においては異常な反応がまさに正常な行動である」(フランクル)との箴言における「正常」の吟味が全くなされることなく独善的思考で暴走し、直截的・短絡的な因果応報がまかり通っていることは看過できない。

 

 国家暴力を発動すればするほど、彼らが根絶したいと夢想するものが育ち、増殖する。対抗的な思索と想像力はそこから出発すべきだとぼくは思います。そして、それは国家的な呪縛から無限に自由であるべきです。ただ、国家的呪縛から限りなく自由であるためには、相当のことを覚悟せざるをえない時期にきているなと思います。(辺見庸坂本龍一、『反定義 新たな想像力へ』朝日新聞社、2002年、120-121ページ)。 

 

 分岐点で誤った選択をしても戻ることなく突き進む。自国の外側から自国を振り返ることなく、自らを正常と妄信する。そこにはテロリストたちの「異常な状況においては異常な反応がまさに正常な行動である」ことへの洞察はかけらもない。

 この妄動の根茎を穿たねばならない。

 

90.生存感覚・生存意識

  本来の生存条件である稀少性、有限性そしてマチエールにかんする感覚の欠如ないし希薄化によって生存感覚・生存意識は、本来の健全さを喪失し認識力・判断力も歪になっている。 

 その主な原因は、マスメディアとインターネットによる過剰ともいえる情報によるところが大きいと考えられるのだが、あらためて次の所説を確認しておきたいと思う。

  

稀少性について: 小山俊一

 この地上に生れてくる人間がみな衣食足りて生きながらえるということは不可能であって、だれかが(むしろ大部分が)かならず飢えるか栄養不良になるかして死ななければならぬ、このことは人類史をつうじて今にいたるまで変らない―という基本事実の根底にある世界条件(人間全体にたいしての物質の不足、生産の不足)をサルトルは〈稀少性〉raretéとよんでいる。(中略) 

 また「国家を形成している集団の性質は、そのなかの余計者たちによって規定されており、集団は存続するためには数的に減少する必要がある。こうした数的な減少はいつも実際的な必要としてあらわれているが、かならずしも殺人というかたちをとるものではないことには注意しよう。」(傍点私)しかしかならず、殺人という意味をおびることにも注意しよう。

 私の註― つまるところ〈稀少性〉という世界条件のもとで人間支配があるかぎり「殺され」死は必然的だというわけだ。当然のはなしだ。

『EXーPOST通信』弓立社、44-45ページ

 

有限性について: ヴィクトール・E. フランクル

 私たちは、いつかは死ぬ存在です。私たちの人生は有限です。私たちの時間は限られています。私たちの可能性は制約されています。こういう事実のおかげで、そしてこういう事実だけのおかげで、そもそも、なにかをやってみようと思ったり、なにかの可能性を生かしたり実現したり、成就したり、時間を生かしたり充実させたりする意味があると思われるのです。死とは、そういったことをするように強いるものなのです。ですから、私たちの存在がまさに責任存在であるという裏には死があるのです。

 そう考えると、どれだけ長生きするかということは、本質的にはまったくどうでもいいことだということがはっきりするでしょう。長生きしたからといって、人生はそれだけではかならずしも意味のあるものにはならないのです。また、短い生涯に終わってもずっと意味のある人生だったかもしれません。あるひとりの人の自伝を判断する基準はその自伝を叙述した書物のページ数ではなく、もっぱらその書物が秘めている内容の豊かさだけなのです。

 (『それでも人生にイエスと言う』山田邦男・松田美佳訳、春秋社、47ー48ページ)。

 

マチエール感覚について: 辺見庸

 マチエールということばを使いましたが、それは人でいえば、においとか温もりとか、冷淡さとか、あるいは抱きあったときの感触とか、つまり質感や手触りや痛覚のことです。そういう交感可能だったものがいま、交感不可能になっているのではないかとおもうのです(25ページ)。

 マチエールをうばわれると、人間の生体はとんでもないゆがみ方をしていくのではないかというのがぼくの直感としてはあるのです(37ページ)。

 見ている側もメディアがこれでもかこれでもかと浴びせてくる虚像の世界を実像だと錯覚してしまう。「悲惨」ということばが、マチエールというのかな、本当に手触りもったことばとしてつたわってこない。それがかえって、いちばん悲惨なことだとおもうのです

(84-85ページ)。

 いまの若い人たちは、いや大人も、総じてマチエールをうばわれて、リアリティというものをそれぞれの肉体から剥ぎとられていっている。そういう時代に生きているのではないかとおもうのです。だから、愛とか痛みとか、人間の感覚のなかでもっとも大事な根源の部分が、麻痒させられてきている。痛覚がなくなってきているし、相手の痛覚も想像することができない(119ページ)。

(『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』大月書店、2009年。のち角川文庫、2010年)。 

 

   情報の「的確な選択」さらには「断捨離」によってあたかもプチ断食が、心身活性に似た効果を生存感覚・生存意識にもたらすだけではなく、諸関係における情報の功罪を再認識させる。

 意識産業からの情報を受け入れるしかなく「依存」効果の対象でしかなかった「虚ろなかかわり」を断絶することによって蘇るのは「個」の叫びだ。再生されるのは、自考力といってもよいし、自己教育力といってもよいかもしれない。

 

89.沖縄米兵の子が吊るされる日

 辺見庸は、自らの必然があればテロを敢行すると述べている。私的な被害・屈辱であったとしても、相手の行為が国家暴力を背負ってのものならば、公権力にゆだねることなく個人として制裁を加えるというのである。

 

 もしぼくがパレスチナの西岸やガザ地区などに生まれていて、いまのようなかたちでで(ママ)あんなでたらめな空爆をうけたら、八割ぐらいの確率でぼくはいわゆるテロリストになりますよ。親を殺され、妹を殺され、赤ちゃんを殺されたら、黙ってないですよ(『反定義   新たな想像力へ』辺見庸坂本龍一朝日新聞社、2002年)。

 

 沖縄はいつ戦時に移行するか予断を許さない情況にある。現在のところ半戦時と言えなくもないが、軍用機が飛び交う下で暮らす人びとや米兵による暴行・強姦の被害者、その恐怖に怯えている人びとにとって沖縄は「戦時」と変わらない。

 辺見はパレスチナの西岸やガザ地区での例え話で自らの決意を表したのだが、沖縄であっても変わりはないであろう。 

 

  毎日、ぼくらのこの世界はテロリストを養成してる。自爆テロ志願者を生み、育てているみたいなものでしょう。(中略)今後は、しっかりと話したり表現したりすることが肉体的な痛みとか、理不尽な目にあうということを、ある程度考慮に入れざるをえないと思いますね(『同上書』)。

 

 ところで、沖縄で生まれ育った目取真俊は、掌編小説『希望』で、戦後の沖縄の底辺最深部に鬱積している怒りの爆発ともとれる記述をしている。コザの市街地からさほど離れていない森の中で、行方不明になっていた米兵の幼児が死体で発見されたという設定である。

 

   今オキナワに必要なのは、数干人のデモでもなければ、数万人の集会でもなく、一人のアメリカ人の幼児の死なのだ。

 

との犯人の声明を記している。

 

 また『虹と鳥』という小説では、沖縄米兵による少女強姦に関して次のような表現がある。 

「こんなに人が集まっても何もできないんだから、沖縄の人間もどうしようもないよな。こんだけ集まったんだったら、基地の金網破って中に入ってな、アメリカ兵を叩き殺してやればいいのによ。いくら口だけわーわー騒いでも、アメリカーたちは痛くもかゆくもないだろう」。

 

「吊してやればいいんだよ。米兵の子どもをさらって、裸にして、五八号線のヤシの木に針金で吊してやればいい」。

 

「そうなのだ。カツヤは胸の中でつぶやいた。比嘉の言う通りだった。それ以外に方法などなかった。八万五千の人々に訴えている少女の姿は美しかった。だが、必要なのは、もっと醜いものだと思った。少女を暴行した三名の米兵たちの醜さに釣り合うような」。

 

 私はこの彼らの言辞に、追い込まれた者に特有の「罪業」と「必然の義」とのconjugation を読みt取る。

 

88.国家・戦争・人間

 テレビやVR(ヴァーチャルリアリティ)に慣らされて、「生身」や「マチエール」感覚が希薄化してしまっている。これに対して、辺見庸は述べている。

 戦争って大変に身体的なことですね。ぼくはアメリカが戦争を工業化しているといいましたが、工業は数値で説明できても、身体はそうはいかない。アメリカ国民には柔らかで痛ましい身体があるけれども、それ以外の他者は数値でしかないというのではおかしい。着弾の音で発狂してしまうとか、そうした被害者を目の当たりにすると、国家と人間というものの構図のなかで、人間というものをこれほど侮蔑したことはないなと、つくづく思います。アメリカ人は一度、そういう爆撃現場を見て歩くツァーをしたらどうかと思うぐらいです(辺見庸坂本龍一『反定義 新たな想像力へ』100ページ)。

 マスメディアを使って政府は民衆の一層の無力化を画策している。この状況はわたしたちにとって「悲劇的」である。

 それは、「<必要>の巨大さの前と緊急さの前に<手段>が間に合わぬことを悲劇的という」―小山俊一(「オシャカ通信」『EX-POST通信』262ページ)のこの言葉の意味において「悲劇的」なのだ。

 だが、デモに参加し、闘うにしても。次の二人の認識はこうだ。

 私たち生き残った戦争世代の者の処生(ママ)上の最低綱領は「国家のために指一本うごかさぬこと」の外になく、思想上の最低綱領は「<民族><国民>を志向するいかなる動向にも加担しないこと」の外にない(小山俊一『同上書』40ページ)。

 

 ぼくはその宿業のような国家幻想に徹底的に対抗する物語のほうが好きなんですね。ぼくは幸か不幸か例外的な本然的反国家主義者なんだと思う。で、ぼくが書くことは、徹底的に反国家的で、反政治で、どこまでもふしだらでいたいと思う。政治に吸収されない、政治に利用されない、国家や政治を勇気づけない、政治的な発想をどこかでせせら笑っていたいですね。ただ、そういうことをやる限りは、どっかで落とし前をつけなきゃいかんというか、何度もいいますけれども、必ず向こう傷を負わざるをえないだろうなと、ぼくは予感してるんです(辺見庸坂本龍一『前掲書』157ページ)。

 

  われわれの徹底的な無力さ。私はそれを承認する。これが<理性>の始まりであり、生涯をかけての闘争が開始される時である。」(「ポールニザン」)―徹底的な無力さ、そこにとどまること、そこから何かが「始まる」かのように浮足立たないこと、それこそがおれたちのたたかいなのだ。そこに辛うじておれたちの〈理性〉がある。

 君(たち)の〈責任感〉はそれをにぶらせる役にしか立たない。きっぱりとそいつをたち切らねばダメだと思う。

 これは議論じゃなくて事実のはなしだ。気づくか気づかないかだ(小山俊一『EX-POST通信』288-289ページ)。

 

 徹底した無力を認識した個そしてその集合態としての私たちの「<必要>と<緊急>は」いや増す、その心身状況が闘いへと自然に向かわせる。これがNot(Notwendigkeit)としての義の発現なのだろう。 

 

f:id:eger:20170430150847j:plain

 最後に次の言葉を。

生きた人間をとらえるのに、〈できるだけ近づいて〉と〈少しはなれて〉と〈できるだけ遠ざかって〉とでは、どうちがうかを考えてみるといい

(中略)

 人がふつうに生活者として生きるとは、自分自身を自分にとって〈もっとも近い(親しい)もの〉として生きること、いわば「至近者」としての自己を存在することだ。うまく行為にも言葉にもなりそうにない「短かい夢」をひきずりながらだ。ところが革命家として生きるとは、自分自身を自分にとって〈できるかぎり遠いもの〉(「歴史化」する存在)として生きること、いわば「至遠者」としての自己を(「巨視」するばかりでなく)すすんで存在することだ。

 「短かい夢」なんぞかたっぱしからそぎおとしながらだ。〈遠いもの〉としての自己を生きる、とはそのまま「自己疎外」の定義そのものだ。すなわち革命家とはこの種の「自己疎外」をすすんで己れに課するもののことだ(小山俊一『同上書』139-141ページ)。

87.生命は個としてのみ実現する

 大量殺りく、核攻撃、動機不明の殺傷、大規模災害、

 人びとは、いつ「殺され死」に追い込まれるかもしれない、そう観念するようになってしまっている。「人間一人の生命は地球より重い」はずなのに。

 だが、・・・・ 

「生命の尊さ」とはウソであって、どうしても「尊い」といいたければ「個(人)の尊さ」といえばよい、「生命」よりも「個(人)」の方が上なのだ。「殺すな」というときの、殺されるものは「生命」ではなく「個(人)」だ(小山俊一)。

 小山が言うように、かけがえのない一回限りの生を生きる「個」であるからこそ尊いのだ。 

 イデーもしくはドグマによって生命の尊さが根拠づけられるものではない。 

 生命とは、他を殺して生き己れのただなかに死をふくむという本質的な否定性をそなえている。この否定性は、生命は個としてのみ実現する(無定形の生命はこの地上にない)というところから生ずる  

 人間が日々他の生きものを食って生きる以上、そして人間と他の動植物の生命にちがいがない以上「生命の尊さ」はウソである。

  だから「殺すな」という定理は「生命」を殺めてはならないというのではなく、「個」という存在を根こそぎ消してしまうようなことをしてはならないということである。

 

 近時、やたら好戦的な権力者たちが魑魅魍魎としてのさばっているが、彼らには「かけがえのない一回限りの生を生きる<個>」への眼差しがあるとは思えない。生命が他を殺して生き、己のただなかに死を含むことを個として<生活者の心>(小山俊一)で認識しているかである。

 自爆テロについて辺見庸が「ただ単に、評論をうまくやってひとり悦に入るようなたぐいであったとしたら、これは言説として勝負にならない」と述べることにも通じるとおもう。

 なお、個として必死に産出した有形無形の非等価物を掠め取るという収奪システムのなかで人は生きているが、そこにも「絶やし」があることを観取する必要がある。

 

 

 

 

86.「それでも人生にイエスと言う」

 V・E・フランクルが著した『それでも人生にイエスと言う』(山田邦男・松田美佳訳、春秋社)は、「心の救い」と「矛盾隠ぺい」の両刃の剣であるが、実際は前者の書として世界中の人びとに読まれてきた。とりわけ悩める若者や挫折者に生気を回復させてきた功績は大きい。

 この言葉が発せられたのはナチによる強制収容所においてである。人間扱いされない極度の負(マイナス)の生存条件下で人間はいかに生きるのか(生きられるのか)、いかなる意識をもち行動する(できる)のか。

 周囲には、人間の劣情、獣性、権勢欲が渦巻いている。傷ついた獣のようにひたすら生きる。弱みを見せることは「死」を意味する。だから虚勢を絞りだす。体力・気力・知力の消耗はすでに限界に達している。

 今日は生きられても明日はガス室で殺されるかもしれない。それでも「人生にイエスと言う」。恐怖のドン底での狂気や逆説の言葉ではない。ギリギリの正気からの言葉であり、観念的な理論や小手先の心理治療での用語でもない。理論や治療メソッドは後付けされたものだ。

 一方、字面だけでこの言葉を受け取ると「安易な人生訓」に陥ってしまう。さらには権力者や強者にとって都合の良いように使われてしまいかねない。反証・批判はあてがわれなければならない。さもないと、この言葉は矛盾を糊塗したり抑圧の道具となるのである。

f:id:eger:20170421110452j:plain

 フランクルは「宗教的な人間は、人生は神が課した使命だと知って生きている」としているが、宗教的人間の方が<存在理解>が優れているとしていることも、宗教が有する危うさ(現実の矛盾の溶解)に無批判であってよいのかとの疑問がどうしても残るのである。

   

   辺見庸も、「フランクルが唱えていることはその凄絶な体験からしても生半な生の賛歌では無論ありえない。私が持ちあわせている自死の理屈なんぞフランクルが展開する意味論からすれば屍のようなものだろう」と述べるとともに次のように記している。

 

フランクルのこの論述自体が・・・・私は彼の言葉をどうしても素直に受け容れることができない。とりわけ「ある死刑囚の例」で語っていることは死刑や教誨活動を事実上、主の名の下に容認したがえうえでのものであり肯んじがたい。(辺見庸『自分自身への審問』毎日新聞社、2006年、151頁)。

 

     とは言え、「それでも人生にイエスと言う」という言葉は、深遠な意味をもつ言葉であることに違いはない。いくつかの留意点を掲げよう。

🔴ここでの人生は「わが人生」であろう。それを敷衍し各人の人生にもイエスと言うということになる。

 自分の人生は生きるに値しないと自身が思う場合にはイエスと言えないが、皆さんの人生にはイエスと言ってください、というのでは説得力に欠ける。各人の(いかなる人であっても)、いかなる状況にあっても、人生にイエスと言えるのか、との問題も含んで考えなければならない。

🔴「それでも人生にイエスと言う」といっても、その内容や覚悟の程度はどうなのか。

V・E・フランクルが言っているのは、彼の強制収容所での体験からして、相当の覚悟であり、深い洞察に基づくものであることは相違ない。凡人がポジティブシンキング志向を吹き込まれてこの言葉を口にするのとは格段の相違である。深く考えることなく「現状肯定」をずるずると引きずっていると、いつの間にか取り返しがつかないことになっているが常態なのだ。

🔴「人生の意味を見出せなくて」ではなく、人生が求めてくることに感応して生きる意味を知る。「人生にイエスと言う」のはそのようにしてである。

 🔴これはフランクルの言葉ではなくて強制収容所での「囚人」たちが隊列を組んで行進するときに歌ったもので、それをV・E・フランクルは自分なりの心理学に基づく心理療法(ロゴセラピー)に即して唱えたものであるという。その際、ニーチェニヒリズムの超克としての「超人」思想を参照し、「それでも人生にイエスと言う」と発したものであるとされる。

 ただし、V・E・フランクルは「人間は、もう論理的な法則からこの決断を下すことができません。自身の存在の深みから、その決断を下すことができるのです」(『同上書』、112-113頁)とも述べていることに留意する必要がある。

🔴人生にイエスと言う。その内容はさまざまである。ただ肉体として生きる(生存する)、課せられたさらには科せられた人生を生きる、役割意識で生きる、人生意味あるとして喜びにみちて生きる。このように幅広い。一方、逆に、人生にノーという人もいる。そしてその内容は多様である。

🔴「それでも人生にイエスと言う」というフレーズの中に「それでも」という前詞が置かれているのは、イエスと言えない状況があって、それへの対処に苦悩し葛藤していることを含意する。その苦悩・葛藤を幾度繰り返してきたのか、その苦悩はいかほど深いものであったのか。それらのことを同時に観取しなければ、この言葉の核心について想到したことにはならないのではないか。

 

85.辺見庸 ×目取真 俊 : 対談

 戦争へ向けて歩み始めている。

   目取真俊 × 辺見庸の対談は、そのような情況かと思わされるなかでなされた。まさに時宜にかなった対談である。

  だがこの対談、共同通信社の配信によって4月16日に沖縄タイムス琉球新報に載ったものの、今のところホンド(本土)の各新聞には掲載されていない。大手新聞および地方紙は、この二人の見解をスルーすることが現政府に良い印象を与えるとでも判断(自主規制)したのか、それとも日々マスメディアに軽佻浮薄を意識づけられている読者には「受容されない内容」であると思ったのか。

 一日も早くこの二人の対談を各新聞社が掲載することを望むものである。さらに言えば対談のすべてを何らかの形で公けにしてほしいと願う。

  ラディカル(本質的)な視点からの二人の発言から数点抜粋する。だが、これら(すべて、もしくは一部)が、今のニッポンでは自然には受け入れ難いとする「空気」が現存する。そのことが「異常」なのだ。

 

 下記の文章(枠内)については前後関係を「本文」で確認の上、読んでいただきたい。

共同通信 / 沖縄タイムス 2017年4月16日)辺見庸氏X目取真 俊氏  対談「本土の視線、潜む欺瞞」-沖縄基地問題を語る。

   対談記事の出所(抜粋元)。

    「Blog「みずき」2017.4.16 。今日の言葉。

           「志情(しなさき)の海へ」2017年4月 19 日。真実の在り処。

 

①本来は敗戦後、昭和天皇を処罰の対象とするのが当然だった(辺見)。

②1945年2月に近衛文麿(元首相)が出した戦争終結の上奏文に昭和天皇は、もう一度戦果を上げてからでないと、と言う。沖縄は「捨て石」という判断がその時から既にあった(辺見)。

③沖縄も無垢じゃない。加害者でもある二重性を自覚すべきだ。ベトナム戦争でもイラク戦争でも基地を通じて米軍を支えた(目取真)。

④目取真さんは沖縄を人間身体と不可分の問題として考えている。(中略)例えば、沖縄が必要としているのは一人の米国人の子どもの死だという暗喩を込めた目取真さんの掌編小説「希望」。傑作です(辺見)。

⑤安保条約の問題を抜きにした9条擁護派は欺瞞だと思う(目取真)。

⑥沖縄の渡嘉敷島宮古島読谷村には慰安婦の慰霊碑がある。(中略)沖縄に置き換えれば、そういう碑をつくるなと国が口を挟むようなものだ(目取真)

⑦怒りの導火線が湿った状態がいつまでも長続きするとも思わない。かつてとは違う形の闘争が何らかの契機で爆発するときがあるかもしれない(辺見)。

⑧日本政府が(沖縄の)独立を認めることはあり得ないと思う。領土だけではなく、広大な領海も失う。そうなれば、自衛隊が出動し、県民に銃を撃つかもしれない(目取真)。

   

 

<余禄:私見>

 領土・領海の拡大または独裁者国家の延命など、他国のせいにしながら国土・国民の防衛を言い募るニッポン政府。

 侵略され攻撃される前に撃つこともあり得ると言う。自国だけでは心もとないから米国の軍事力を頼みにしつつ。

 「かの国」が核兵器保有と威力を顕示する核実験を強行すれば、米国は独裁者の暗殺さらには核攻撃を含む軍事力行使を断行すると公言している。米国まで核ミサイルが確実に到達する水準(力量)に「かの国」が達しないうちにである。在日米軍、在韓米軍に死傷者や犠牲が出てもやむを得ないと割り切る。ましてや、日本や韓国にどれほど犠牲が出ようと「織り込み済み」のことするのが米国の見解だ。その先には、中国の領海・領土拡大に対する反発・制御戦略の強化や先制がある。

 安倍内閣は、クニのためならば、国民は犠牲を覚悟するのは当然であるとする。政府(国家権力)の役目は武力攻勢してでもニッポンを守ることにあると公言する。

 だが、そもそも朝鮮分断そしてその後の朝鮮戦争は、軍国主義ニッポンおよびその後の米ソの覇権争いに起因したものである。今日の朝鮮半島の分裂は、休戦そして収束の結果、朝鮮民衆がやむをえず受け入れたものだ。日米の侵略の罪業が朝鮮半島の今日の状況を生み出しているのであって、そのことを頬被りし「休火山」のマグマを噴出させるがごとく穿つことは、二度にわたって朝鮮民衆を痛めつけることになる。

 アメリカ・ファーストが自国(米国)第一主義であるならば、文字どおり軍事も自国防衛に専念し外交努力と国内問題改善に全力を傾注すればよい。シリアや北朝鮮には自力更生を間接的に支援するべきだ。ましてや権力者自らの支持回復のために戦略的に他国を介入・侵略することは、被侵略国や世界の安定には厄災以外何ものでもない

 国家の本質は暴力装置である。自国第一主義の国家リーダーたちが、その暴力装置に手を染めることを民衆として止めなければならない。暴走は金融資本主義で、もう、辟易しているのだ。

「 怒りの導火線が湿った状態がいつまでも長続きするとも思わない。かつてとは違う形の闘争が何らかの契機で爆発するときがあるかもしれない(辺見)」。

84.「自己教育」 (その2)

 「第三の暴力」とは、集団を前提としない、あくまで諸個人の自律性に基づいた抵抗であり、これは日常の些細な場面でも起こりうる。それはまた、国家や、国家と連動する資本主義から見れば「無価値」の者たちが、各々に表明する抵抗の形態でもあるだろう(『たんば色の覚書 私たちの日常』165ページ)と、辺見庸が述べる。あくまでも諸個人なのだ。

 では、人はいかにして「個人」になるか。

 

 小山俊一のことばに耳を傾けてみよう。(『プソイド通信』『EXーPOST通信』)。 

〇どんな「外発」力も、そこにある種の「内発」を生じさせるだけの喚起力・挑発力をもつものでなければ、どんな「一種の形式」もそこに生れることはできない(186-187頁)。

〇(ニーチェのいう「(自己教育にとって)生れながらの敵である親ども教師ども」をはじめ全社会からしかけられた)さまざまな「後退の(パターン」を破る〈暴力〉
的な「試み」という性質が、ある共通の構造をそなえながら必ず含まれているにちがいない。それは見る目さえあればつかみ出せるにちがいない、と私は考える(19頁)。 

〇痛切な経験(人がめいめい与えられた自己条件と自己状況に立ち向かって生きてゆく過程で必ずぶつかる〈自己教育現象〉)をひろく集めることができれば、その輝きと豊かさの前ではいっさいの教育理論は色あせるにちがいないと私は思う(18-19頁)。 

 〇 教育の現場(むろん学校にかぎらない)をまさに教育の現場たらしめるもの、それがく教育現象〉だーというのが私の考えだ(183頁)。 

〇「自己教育」こそが<教育現象>の核心である (184頁)。   

〇人間が限られた手持ちの手段を使って、直面する状況(問題)をのりこえるところには、つねに<教育現象)が生じる(184頁)。  

 

 「自己教育」という用語は小山俊一の独創によるものである。この用語は一見すると、カントの教育論における「人間は人間の全自然素質を、自分自身の努力によって、自分の中からしだいに取り出すべきである」との思考に類似しているように見える。

 だが、「人間の全自然素質を自分で取り出す」という表現では、誰のために、何のためにという点が明らかにされていない。むしろカント教育思想における実践論で目指される、①訓練: 野生(動物性)の制御 ②教化 :熟練した能力の獲得ということからすれば、その目的は外在的である。

 その点、自己教育は、「思考」を自己対象化として捉えるものであるといえる。

  ウソと自己欺瞞でできている世界に対抗する個人、ないし個的必然性と世界との確執という視点から「自己教育」を見直す。小山俊一の教育論の核心はそこにあると思う。

 付記

 小山俊一は「自己教育」論を、永山則夫を巡って展開している。これは凡庸な批評をはるかに超えるものであると断言してよい。

83.自己教育(その1)

 文化庁長官もであった三浦朱門曽野綾子の夫で2017年2月に没)について、辺見庸が次のように述べている。

 

 (三浦朱門は)教育基本法改悪にことのほか熱心で、児童教育について「非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばよい」などと真顔で語ったこともある。「法は法」発言同様に、放つ言葉に人間の温もりがない。聞くところによれば、キリスト者なのだそうだ。それだけではなにほども意味しはしないけれども、この人物の場合、神よりも人よりも「国家」を奉じている様子である。(辺見庸『いま、抗暴のときに』毎日新聞社、2003年、のち講談社文庫、2005年。142ページ)。

 

 この三浦朱門、かつて「女性を強姦する体力がないのは男として恥ずべきこと」と雑誌で発言した男である。

 一事が万事、この国の教育行政(国家が主導することもないのだが)、そして教育のの根本の劣悪さは目を覆うばかりである。だからなのか、辺見庸は教育について真っ向から論じたり批判する気にもならなかったのだろう。読むべき教育に関する評論は見当たらない。

 

 ルソー(1712 - 1778年)は、自然の状態では自由でかつ平等であった人間が社会を作り、文明を進化させることで堕落したと述べた。そしてルソーの教育論(思想)は、民衆としてのこどもを対象に主にその視点から構築され、「自然に帰れ」との理念から、考える力=理性を育てる前に、感覚器官をしっかり育てることの重要性が説かれた。ルソーは3歳までは感覚器官を鍛え、特に身体を鍛えることを教育の基本にしたのであった。

 教育(Education)は、ラテン語の「引き出す」あるいは「導き出す」という意味の言葉を語源としているという説もある。

 

 その後、教育思想はカント(1724 - 1804年)にも受け継がれ、彼の教育論では、大きくは自然的教育と実践的敦育に分けられる。その要点は森 昭氏(大阪大学)によれば次のように示すことができよう。

 自然的教育とは「人聞が動物と共通に有する教育」のことで、保育(養護)がこれにあたる。 実践的教育は、「人聞が自国に行為する者として生活できるように、人聞を凶冶しようとする教育」であり、技能、利口さ、道徳性が教えられる。

 一方、訓練、育成、開化、徳化の区分がなされる。注目すべきは実践的教育であり、これは人聞は初めから「自由に行為する者」ではあり得ない。人聞は、初めは、少なくも本格的な意味では、自由に行為することはできない。そうであればこそ、「自由に行為する者」としての人聞の教育に、自然的教育が先行しなければならないとされているのである。

 ここから読み取れるのは、ルソーの教育思想では「人間は人間の全自然素質を、自分自身の努力によって、自分の中からしだいに取り出す」とか、「人間は教育によってはじめて人間になることができる。人間とは、教育が人間(の素材)から作り出したものに他ならない」としながらも、実践的には、訓練、育成、開化、徳化さなければならないということになる。

 ペスタロッチ(1746 - 1827年)によって学校教育の礎が築かれ、以後、多くの教育思想や教育実践論が展開されたが、現代の学校教育中心の教育では、教化として熟練した能力の獲得が大部分を占めるに至っている。

 その背景には近代化産業化する社会への適応があり、労働力を保有した人間の能力向上が目指される。そこには民主社会とは別のパラダイムで動く資本の論理・商品化経済を推進する企業社会がある。教育の理想(人間の本源的な資質の創造的な開花)が組織的・制度的ひいては権力的に圧潰されていく。

 

 教育が産業社会に資するための労働力(製品)の生産・流通に資することが目指される。そのための主な機構である学校が「教育産業」となる。生徒・学生は、労働力商品化の過程で、本来保有している自由で平等で創造的な感性資質(素材)を加工され品質管理によってブラシュアップされていく。しかも固有の労働力能力・品質の向上のみならず産業化(企業社会)におけるドグマ、ルール、手法等の徹底的な刷り込み(洗脳)が行われる。金融資本が(この国では国家権力さえもが)それを後押しする。

 

 現代教育では産業化原則(分業化・大規模化・標準化)が貫徹している。視点を変えれば教育をめぐる「教育する者とされる者」という二分化と、教育される者が主体であるべきにもかかわらず主客転倒してしまっているのである。

 教育する側の押しつけ・強制が全面にあり、教育を受ける者が一方的に受け入れる側として、または教育する側への「像合わせをする」者としての存在でしかなくなってしまっているのである。

 (これに対して「自己教育」の視点から真っ向から異議を唱えたのが小山俊一であった)。

 

82.世間への溶解と「個」の死

 日本には世間はあっても社会がないという話はよく耳にする。

「世間」とは、諸個人がつねに集団の価値観や意見を優先する空間であるとすれば、そんな世間で生きたとて本当に生きたといえるのか。

 

 辺見庸は「個」にこだわる。彼の著作のなかで「個」ないし「個人」という語はかなり高い頻度で出てくる。そして「個人という言葉が日本では1884(明治17)年までなかった」との阿部謹也(西洋社会史の研究家)の言葉を紹介している。

 

 何よりも個として生きてこそ生きるということなのに、自分で考えることをせずに、自身で「変だな」と思っても異を唱えない。いちいち異説を持ち出して周囲と衝突していては神経が疲れる。周囲との関係を重視し自分の意見を封じ、流されるままに生きている方が楽だとつい思ってしまうのだろう。 

 

ファシズムそして独裁、これらも「均一化」「他律性」という点で世間と同じである(当初、または表向きの「題目」とその後の「実体」とは似て非なるものである)。

消費資本主義社会やマスメディア空間も例外ではない。これらも間接的に「均一化」「他律性」を強いるものであり、ファシズムに転化する特質をもっている。

 

 小山俊一は言う。

 個とはひとりひとりの人間のことだ。いうまでもなくこの地上にあるものはすべて個としてある。山も海も木も鳥けものも夕焼けも風も波の音もすべて自然は個なるものとしてある。すべて個なるものはくみつくしがたい。しかし私たちにとってもっともくみつくしがたいものはついに人間という個だ。すなわち人間ひとりひとりは個のなかの個、くみつくせぬもののなかのくみつくせぬものだ(小山俊一「オシャカ通信」No.2)。

 

 利己とは、利己的に生きること。生きていくこと、そして種をのこすことのために行動することである。その第一義的な目的は「存続」にある。

 一方、個は存続を第一義にしない。目的は、「唯一無二」を実現することにある。

後天的に獲得したものを基調とするが、自業・他業が編み合わされ形成され、明確に固有・独自なのは通常はごくわずかしかないものの、わずかでもそれがあれば「個」としてとても貴重なことである。

 

 辺見庸の「個」についての見解を記しておきたい。

 私の個人的テーマでもあるのですけれども、社会が悪くなるというのは必ずしも悪意の人間たちがたくさん増えていることを意味しないと思うのです。私は、いまの社会というのはなんていうのでしょう、たとえば集合的な無意識っていうのでしょうか、あるいは集団的な無意識―ちょっとユングの言葉のようですけれども―に左右されつつあるような気がするのですね(辺見庸『不安の世紀から』p.89)。

 

 この国の精神の土壌はいまもって、意志的決定よりは、暖昧模糊とした生成、醸成に向いているようだ。政治、経済の帰趨でも、議論を積み重ねた意志的、計画的な組み立て作業の結果というよりは、ときどきの「空気」によりなんとなくそうなってしまったという、長い生成の結末であることもしばしばである

 無意識の生成のプロセスや、その場の「空気」が、往々、個々人の意志的決定を溶解してしまう。あるいは徐々に呑みこんでしまう。そこに、「私」がいないということはないのだ。

 「私」はいながらにして溶解してしまうのである(辺見庸『同上書』p.279)。

81.夜と霧

f:id:eger:20170408161847j:plain

 強制収容所の入り口が近づいてくる。次々に夜間秘密裡に捕縛され、収容所という名の地獄のなかで多くの人が消されていく。

 

 機関車の鋭い汽笛が薄気味悪く響き、それはさながら大きな災厄に向ってひかれて行く人間の群の化身として、不幸を感づいて救いの叫びをあげているかのようであった。そして列車はいまや、明らかに、かなり大きな停車場にすべりこみ始めた。

  

 貨車の中で不安に待っている人々の群の中から突然一つの叫びがあがった。「ここに立札がある―アウシュヴィッツだ!」各人は、この瞬間、どんなに心臓が停まるかを感ぜざるを得なかった。アウシュヴィッツは一つの概念だった。すなわちはっきりとわからないけれども、しかしそれだけに一層恐ろしいガスかまど、火葬場、集団殺害などの観念の総体なのだった。

 

 列車はためらうかのように次第にその進行をゆるめて行った。すなわちあたかもそれが運んできた不幸な人間の積荷を徐々にかつなだめつつ「アウシュヴィッツ」という事実の前に立たせようとするかのようであった。今やすでに一層色々なものが見えてきた。

『夜と霧』フランクル著作集・第1巻(霜山徳爾訳)みすず書房、1961年、84ページ。

 

 戦時においても普通のくらしがある。石川淳は短編「マルスの歌」で、何気ない顔をしたファシズムを描いた。辺見庸も「日常の時間そのものが、盤石の正常さとともに、実は狂気を秘めているのだろうと思う」と書いている(『絶望という抵抗』)。

 

 では、今という「実時間」ではどうなのか?

 ショック・ドクトリン国民意識支配の日常手段として講じられるなか、消費資本主義による「平和」の時間が流れている。

 言葉に責任を持たない厚顔無恥な「詩人」が盗みをはたらき、本来、歴史に学び戦闘を回避するべく必死に努めるべき政治家が交戦やむなしとばかりに気色ばみ、民衆を根こそぎ 捕縛する準備に躍起になっている。

 考えてみると、人間存在そのものが、本来、危ういものであり、いつ、壊され、つぶされ、消されてしまうかもしれない状況のなかで生きている。 

 だが、小山俊一が言うように、人間は基本的に受動的な存在ではあるが、一人ひとりが己れの必然に衝突し、それに固執することが求められる。

 

 生きていくにはやむをえず「受け入れ」ざるを得ない。受け入れるにしてもどこまで受け入れるのか、本当に受け入れるのか。「そんなはずじゃなかった」では手遅れなのだ。

 軽薄で独善的なスピリチャリズムに憑かれた独裁者によって、「夜と霧」の指令書が手あたり次第に発せられる前に、己れの「必然」に衝突するほかない。

80.ある詩人の「剽窃」

 辺見庸は10年ほど前にこんなことを書いている。

  どだい、政治のなにが重要というのか。あれらの言葉の愚弄。空洞。あれらの言葉の死。ほら、そこの軒下に干してある黄ばんだおしめほどの意味すらありはしない。

『言葉と死 辺見庸コレクション2』毎日新聞社、2007年、203ページ

 

    政界用語や本性を美化する日本会議の面々による胡散臭い用語。もし言葉に匂いがあれば「異臭」が立ちもめているといってもよいだろう。しかもそれをマスコミが大衆の「俗情」を察知しながらかき混ぜる。清冽な言葉が完全に滅し、不等価性をもった言葉も死んだ。人びとは、指示用語と商品化用語だけの世界で生きていく。

  ところであるツイッターで次のような文言が目についた。詩人、河津聖恵(第53回H氏賞受賞者)のつぶやきである。

 

 私にとって詩の主体は、言葉あるいは日本語かもしれないとふと思った。あたりまえかもしれないけれど。これだけ人間が言葉をエゴの恣にし、噓いつわりしか語らなくなると、言葉が人間を見捨てていく。人間が言葉を、ではなく。だからせめて詩を書くときは、遠ざかろうとする言葉の側につきたい(下線は引用者)。 2017年3月13日

 

 「言葉が人間を見捨てていく。人間が言葉を、ではなく」。まさにこの一文は現在の言語状況に対して的確な表現である。ニッポンや米国だけでなく、世界の国・地域にも当てはまるようになっている。

 だが、この表現、45年前にある詩人が発したものであることについて河津は記していない。あまりにも有名なフレーズゆえに、記憶の中にあったものをつい使ったのか?それとも未必の「剽窃」(盗用)なのか?

 河津聖恵は、その後、この表現が日本共産党機関紙「しんぶん赤旗」のコラムで取り上げられたことをツイッターで紹介している(2017年3月27日)。そのコラムを書いた詩人も、これが(この部分が)石原吉郎(詩人)によるもの(と同様の趣旨)であることについて全く触れていない。

 その点、辺見庸は、このフレーズが石原吉郎によって発せられたと適確に書いている。(出典:『瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ』NHK出版、2012年、185-186ページ:他の著作の中でも引用している)。

「ふたたび、石原吉郎の言葉が浮かびます。

・・・・・・ことばを私たちがうばわれるのではなく、私たちがことばに見はなされるのです。ことばの主体がすでにむなしいから、ことばの方で耐えきれずに、主体である私たちを見はなすのです。いまは、人間の声はどこへもとどかない時代です。自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかりきこえる時代です。日本がもっとも暗黒な時代にあってさえ、ひとすじの声は、厳として一人にとどいたと私は思っています。いまはどうか。とどくまえに、はやくも拡散している。(後略)(「失語と沈黙のあいだ」『石原吉郎全集Ⅱ」花神社より)(下線は引用者)。

 

  河津は、ツイッターにおいてではあるが、詩人として情報発信媒体を使い他者の重要な「言葉」を使う。それについて気づかないまま肯定的に「評価」する「詩人」もあらわれる。それが「政党新聞」にそのまま掲載される。

  「言葉が人間を見捨てていく。」(河津)「ことばの方で耐えきれずに、主体である私たちを見はなすのです。」(石原)。この二つのフレーズが実質同じであることは明らかである。

  詩人という言葉をいのちと同じくらい大切のするはずの人、最も言葉を創造的に扱うはずの人が、このありさまである。(商品経済に心を売った谷川俊太郎もしかりであることは以前取り上げた)。

 言葉が「詩人」を見捨ててしまうことにならないように願うばかりである。

 

* 付記

 後日、河津聖恵氏から「剽窃」を認めるメールでの回答があった。しかし、反省の言葉や、善後策について何も記されていなかった。