辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

100.辺見庸の「置き文」

 

 生き苦しさが増している。むしろ「息苦しい」といった方がよいかもしれない。右傾化なんて言葉では片づけられないほど、価値観の底が抜けてしまっている。この苦しさの理由は根深いところにありそうだ。

 宮城県石巻に生まれ、太平洋沿いの海岸近くで育った辺見庸は、少年期、潮騒と海鳴りを聞きながら、なにか「妖しい」気配を感じていた。だからなのか、長じてからも「根はとてつもなく明るいけれども、世界観というか未来観についてはひどいペシミストだった。とても暗い。」と彼は自己分析する。

 もちろん辺見は、経綸の視点から「気配」を感じてきたのではない。世の中がどうなろうと自分という「個」なのだ。「個」の自由( 最も重要なのは精神の自由だ )を望むゆえに世の気配の変調を許せないのである。そのことは、辺見庸の自己描写によって明らかである。

 

「僕には抵抗という意識はない。世のため人のためなんて発想も一切ない.本当は世の中なんてどうなったっていいのです。ただ要するに、自分の快不快のため、口はばったいことをいえぱ、自分の実存の“芯”を意識していたいから、いわざるをえないということですね。」(『いま、抗暴のときに』208ページ。)と彼は率直に述べているのである。

 

    離婚し家族が去った。その後2004年3月に脳出血で倒れ、その後リハビリに努めるものの後遺症は寛解しない。

 脳出血とほぼ同時期にガンが見つかったことも(快癒したとはいえ)心身に一抹の不安を残していると思われる。

 それに拍車をかけるように国内外の政治経済状況の歪みが耐えられなくなるほどひどくなった。愛犬(つれあい)と暮らす。

 彼の根っからの気質が次第に露わになる。「エキセントリックな任侠左翼」の面が現われたのではと見るふしもあるようだが、それはすこし違う。

 

「わたしがごくおとなしく、フッウに正気で、平和的で、非倒錯的で、いわゆる正義の味方だ・・・というのが平板な誤解である」(『いま語りえぬことのために―死刑と新しいファシズム』184ページ)。

  

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 辺見庸が自らの「生」の限界を実感したのは、脳出血で倒れてからであることは間違いないだろう。後遺症によって、倒れる前のようには身体が思うとおりにならなくなるとともに徐々に苦痛が増している。

 「古い言葉だけど、ぼくはネアカなんですよ。手術のころは身体中にチューブをつけたまま下手な冗談を言ってました。ぼくの人生ってのは、どのみち半ば以上にジョークみたいなものだ、という不謹慎な考えが抜けないんです」(『記憶と沈黙』104ページ。)と、強がってはいるが、脳出血で緊急手術しガンが見つかってからの著述ではあきらかに変化が起こっている。

  

 「東京都公認の二級の身体障害者であります。バッイチで、犬と暮らしております。」と自嘲的なことばを吐く一方で、辺見庸の著作は「置き文」の色彩が濃くなっていると思われるのである。

 以前にもまして彼は自身の精神の内奥を凝視し、言わなければならないことを独白のように書き綴っている。そのなかには、心のうずきに堪えられなくなって発せざるを得なくなって書いている文もあると推察する。

 

 置き文と思われる文章は少なくないが、その中から彼が潜思のすえに心境を語っている( と筆者が推察する )三つの文を以下に掲げる。

 

静謐

 私は誰より静けさが好きだった。寡黙で静謐な人間を好んだ。大声で話す好人物よりもいつももの静かな連続殺人犯のほうがよほど好ましいと思ったこともある。おめく自分を誰よりも軽蔑していた。医師に声帯を抜いてもらおうかと考えたことだってあった。終いには自分のあらゆる発声、発語まで嫌いになった。

 だが、私は結局わめきつづけたのだった。無伴奏チェロ組曲をとことわに黙って弾きつづける老人には残念ながらなりえなかったのだった。数十年怒鳴り、すごみ、わめきつづけた末に血圧は極点まで上がり、血管がボロボロになった。挙げ句の果て、私はやはり声高に何ごとか人々に訴えている真っ最中に脳出血で倒れ、それでも死にきれずに、これが怒鳴りつづけたことと関係があるかどうかつまびらかでないけれども、今度はご丁寧に癌まで患った。何という大ばか者だろう。私はロボトミー手術でも受けて、伊豆かどこかの陽当たりのいい別荘地あたりでニコニコ笑いながら余生を生きればよかったのだ。

(『自分自身への審問』163ページ)。

 

受傷者のことば

「そんなにえらそうなことは言えないですけどね。僕自身としては結局言葉や文は、何かを失ったり傷を受けたり奪われたりしないと生まれてくるものではないんだと思います。お金や地位や豊かな言葉や、いい嫁さんやいい旦那さん、何も失わずにそのすべてを手に入れるということは断じてありえないですよ。

 つまり、ものを書くということは、俳句であれ詩であれ散文であれ、受傷が前提にあるのだと思います。もしかすると自分では傷を受けていることに気がつかない人もいるのかもしれない。傷は主観的なものですから、それぞれ感じ方は異なるのですが、いずれにせよ受傷をきっかけに文は生まれてくるのだと僕は思っています。

(『明日なき今日』138ページ)。

 

日常への拒否

「ぶかっこうなもの、とるにたりないもの、弱々しいもの、形をなさないもの、無価値とされるもの……そういう原存在の側から、システムに同化することを完壁に、かつ穏やかに拒絶した男。いまの日常に余儀なく生きる私たちはバートルビーにそんな像を見てもよいでしょう。〈決して有用でないもの〉―ここにこそ存在の原点がありそうです。

 私たちは一呼吸するたびに、一歩歩くごとに、食べ物を一回噛むごとに、愛を語るごとに、詩を一編書くごとに、死ぬごとに、生まれるごとに、資本主義に奉仕しその延命に手を貸しています。市場はわれわれのためではなく、われわれがもっぱら市場のためにあるのです。私たちは常に有用であることを求められています。慈しみも優しさも愛と美の千態万状も、市場に吸収され市場から吐きだされる「意識商品」にすぎなくなりました。それが私たちの日常です。

(『たんば色の覚書』167ページ)。 

  

 

99.「自己規制」や「忖度」を強いる社会は精神の自由を侵している。内面荒れ狂う辺見庸の言葉。

  不自由であってもいろいろ悩まずにすむからといって怠惰な安寧に逃げ込まない。だが、まっとうに生きようとすれば権力に殺される、「殺され死」せざるを得ないが、各人が各様に葛藤しながら行動するしかない。そのことを肝に銘じながら生きる。それが十字架を背負って生きるということではないか。

 十字架の前で祈れば神に救われるなんてすり替えである。壮大な哲学・思想・宗教理論は観念のお化けの世界であり一種の魔界である。

 

 自由を侵すもろもろに対して怒り、批判する。撃つことだってありとする。そして責任を取ること、誠実であること、それらができないことを恥とする。

 人間にとって最も大切なことは、結局、「自由」であることである。辺見庸は心底からそう考えている。「自己規制」や「忖度」を強いる社会は「個」の自由を侵している。 

 

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 ところで、次に、辺見庸の激言、極言、直言を記したい。わたしたち一人ひとりに突き付けられた問いである( 少し分量が多いがじっくり読む価値があると思います )。

 

異視点からの主張

〇中国と戦争やるのか、ロシアと軍事力を競うのか。事実上、九条は機能していない。非核三原則だって危ない。武器輸出の原則も崩しつつある。そうしてこの国がいくら軍備を増強したって、あんなマンモス象みたいなのにどうやって対抗するのだと、その非科学性を言っているんです。九条死守より軍備増強のほうが客観的合理性を欠くのです。

 だから米国の軍事力に頼れ、日米安保を強化しろ、沖縄は我慢しろ、というのは絶対に違う。その逆です。身体をはった徹底的なパシフィズム(平和主義、反戦主義)が僕の理想です。九条死守・安保廃棄・基地撤廃というパシフィズムではいけないのか。丸腰ではダメなのか。国を守るためではなく、パシフィズムを守るためならわたしも命を賭ける価値があると思います。(『明日なき今日』113ページ)。

〇僕は、すごく変ないい方をすると、あの憲法は、言葉のもっともいい意味で反国家的だと思う。反国家主義で反権力主義です、あれは。現状の反動化と戦う最大の武器です。あんな憲法はないです。あんな憲法はないということを、僕は非常に高く評価するわけです。各国憲法史上はじめてですよ。戦力不保持を明言ずる。読めば読むほど、筆者の深い思いのこめ方を感じますよ。GHQの強圧だけでは、ああいう深い意思を表現したセンテンスというのは、前文もふくめてでてこないんじゃないか。(『単独発言』136ページ)。

〇映画でも文学でも偽善は絶対いけない。だからこそ安っぽいヒューマニズムもいけない。だれにでも利用されるような、どんな政党にも、どんな政治的綱領にも使われるような安手のヒューマニズム、人権という言葉はいらないと思うのです。

(『不安の世紀から』226ページ)。

〇「善人」よりも「悪人」といわれているひとの話のほうが、聞いていて引き込まれる。あきらかに存在として底光りする魅力があるのです.つまり、善魔よりは悪魔のほうがよほどおもしろい。ユーモアもある、深みがある、ということがいえると思うのです。

(『いま語りえぬことのために―死刑と新しいファシズム』72ページ)。

 

直言

〇見ないこと、知ろうとしないことくらい非人間的なことはない。

(『抵抗諭一国家からの自由へ』258ページ)。

 〇他者の苦しみを苦しむことができない。隣人の痛みを痛むこともできない。絶対にできない。にもかかわらず、他者の苦しみを苦しむことができる振りをするのがどこまでも巧みだ。

(『たんば色の覚書 私たちの日常』 20ページ)。

〇いまという実時間の最中に「思う」こと。思惟すること。それを自分の言葉にして表現すること。ときに自己決定をみずからに迫ること。それこそが、この時代にあっての私の抵抗といえば抵抗なのです。

(『絶望という抵抗』258ページ)。

 

テロ

テロリズムとは、こちら側の条理と感傷を遠く超えて存在する、彼方の条理なのであり、崇高な確信でもあり、ときには、究極の愛ですらある。

(『単独発言』49ページ)。

こちら側の生活圏で、テロルは狂気であり、いかなる理由にせよ、正当化されてはならない、というのは、べつにまちがってはいないけれどあまり容易すぎて、ほとんど意味をなさない。

(『同上書』49-50ページ)。

パレスチナ自爆テロがまちがっているなんて、とてもいえませんよ。

(『いま、抗暴のときに』222ページ)。

〇あらゆる誤解を覚悟していうなら、私はそのこと(同時多発テロ)に、内心快哉を叫んだのである。

(『単独発言』51ページ)。  

〇男への死刑の執行、その怖れに打ち震えているのである。新たなる9・11並みのテロ、スペクタクル、戦争よりも、国家による私の友人殺しのほうに心底打ちのめされる。

(『独航記』425ページ)。

〇私は、そして読者よ、〈時の共犯者〉よ、後に虹の不首尾を知ったとき、内心なにを想ったか。臓腑をすっぽりなくしたような虚脱とともに、<虹よ、いっそ架かればよかったのに>と、一刹那なりとも無神経に考えはしながったか。白状しよう。私は脳裡のスクリーンに派手やかな虹を架けてみたことが一再ならずあったのだ。

(『記憶と沈黙』71ページ)。

 

死刑の廃絶

〇死刑制度をどう考えるか。その答えのいかんで、その人の思想や世界観の一端どころか、おそらくはいちばん大事なところが見えてきます。人間観の中心部分も照らしだされます。

(『単独発言』256ページ)。

〇『永遠の不服従のために』では、「人間はどこまで非人間的になれるのか」ということも考えましたが、僕はこれを確定死刑囚の友人がかつて犯した罪に向けているのではまったくなく、死刑制度や戦争という国家犯罪に向けていっているのです。

 エンツェンスベルガーは、私的な殺人は公的な殺人と比べものにならないほど数が少ないと指摘して、国家の存在自体が犯罪なのだということを証明しようとしましたが、人間の非人間性は私人からではなくまさに「非私人」の組織体から発生するように思われます。

 僕は死刑制度に反対です。そのことと戦争に反対することは、僕の内面では、ほぼ同じことなのです。

(『いま、抗暴のときに』234ページ)。 

〇ニッポン的、あまりにニッポン的な絶対的空無の深淵とでも言いましょうか。その明度、彩度、色相において、禁中と刑場は、はなはだ申し訳ないけれども、通底しているのではないか、似ているんではないかと私は怪しむし、怪しむ権利があると思います。

(『いま語りえぬことのために』76ページ)。    

 

天皇

天皇一家の人権を考えようとしない。実際上の人権蹂躙なのです。逆にまた担ぎ上げようという「天皇制利用主義者」と「天皇制的俗物」たちの動きがある。そういう日本的なイデオロギーというのかな、日本的な慣性やニッポン型ファシズムの「矮小性」というものを下支えしているのは、やはりマスメディアだね。

(『明日なき今日』53ページ)。

 〇戦前、戦中の日本の天皇ファシズムは、たしかに苛烈な一面をもっていたけれども、それはかならずしも上からの絶えざる強圧的統制、全面的かつ暴力的弾圧を必要とするものではなかったともいわれます。下(民衆レベル、マスメディア、教育・文化界)からの協調主義的全体主義化や日々、自然に醸成されていく〃おのずからのファシズム〃といった側面もありました。朝野あげてのその摩擦なきファッショ化は、ナチス・ドイツも羨ましがったほどだった、といわれます。

(『瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ』85ページ)。

〇漂白された嘘の風景は、あの日以来、世紀を越えて、いまもつづいている。試みに自問してみる。万一、あの日、あそこに虹がかかっていたならば、あの日から引きつづく今日は、多少はよくなっていたのだろうか?とんでもない、そんなことはありえないのだ。

  ただ、はっきりしているのは、あの日、虹がかからなかったので、あの日に引きつづく今日がよくなったとも、とてもではないが、いえはしないことである。私はさらに自問する。では、虹の試行には、まったくいかなる意味も見出しえないのか、あれは二百パーセントの愚挙だったのか、許しがたい妄動であったのか、そのように簡単に過去を決着していいのか……と。答えは保留である、保留。

(『記憶と沈黙』56-57ページ)。 

 

悲嘆、指弾そして唾棄

〇自分の声はどこにも届かないのに、ひとの声ばかりが聞こえる。いや、ひとの声さえも、心の底からの声は聞こえてこなくなっている。

(『いま語りえぬことのために―死刑と新しいファシズム』87ページ)。

 〇最近何度かインタビューを受けたけど、それは大抵日本はどうなるんだ、どういうふうに復興すればいいのかというものなんだ。そういう質問じたい不愉快なので、この際一回滅びたほうがいいんじゃないかと言うと、正気なのかという目で見られて、けっきょくそれはなかったことにされて新聞に載らない。ぼくは本気で言ったのにね。

 こんなインチキな国はなくなったっていいじゃないか、棄てちまえ、と。いくらニッポンでも千人に聞いたら一人ぐらい言うよ、この際一回なくなってしまったほうがいいじゃないか。そういった言説を全部きれいに消していく作業だけは、メディアの連中は見事にやる。

(『死と滅亡のパンセ』83-84ページ)。

 

付記

*出典名は略記しています。

 

98.「根源」を見つめ続ける 

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 辺見庸は文学という世界で、厳しい自己との対話を繰り返してきた。スィン(罪業)を凝視しながらクライムを超える自由を達成するべく、もがいてきた。

 作品には微細であっても欺瞞があってはならない。それが無自覚な偽りであったとしても。細部に偽りが宿っていれば「罰する」。それは彼自身への戒めでもあった。

 

   

 作品に下駄を履かせてはいけない。高名な俳人だろうとなんだろうと、上げ底にしてはいけない。また、逆に詠み手の経歴から全面的に否定してもいけない。

 文学というのは、それほど苛烈なものだという思いが僕にはある。だからこそ法を超える宇宙性をもっている。少なくともクライムという意味での犯罪は超えるでしょう。クライムは、法律上の罪として対処されますがそれを超えて自由を達成できるのが文学です。

 文学は根源的罪(スィン)を視圏に置くものです。そうした言葉は文学や哲学にしかないはずだと思います。そう確信しますが、この国では実現されているとは言いがたい。死刑制度を受容するような文化に、根源的罪を視圏に置く哲学的深みは期待できない。

(『明日なき今日  眩く視界のなかで』毎日新聞社、2012年、146-147ページ)。

  

 通常の人智や生存感覚を超えた世界に入る。快楽原則と損得世界に生きる者にとってその真髄は容易には理解できないだろうし、理解しようとの気も起らないかもしれない。

 明日を思い煩うことなく今日を生きる。それはそれで幸い。厄災続きの暮らしをなんとか乗り越えられればよしとするのが精いっぱいなのだから。深遠な世界ましてやその真髄など求める必然も視線もまったくない暮らしを幸い(幸運)としてすがりつくのである。

 

 トップランナーや成功者から「元気をもらう」のでは、どうしてもやりきれなさが尾を引く。そして実際は、人生とは歯医者にかかっているようなもので、これからが本ものになると思っている間にもうすんでしまっているビスマルク)といった状態になってあの世の人となるのである。

 

 時に全く荒みのない人へ思いを馳せたら、「革命」を幻視したいものである。時代と情況が自己に求めることに対して、内なる必然の声に耳を傾けながら応える。  

 ステレオタイプな区分で少し気が引けるが、自問の種類と年代のメドを示してみる。 何がしたいか 10~20歳代、 何をなすべきか 30~40歳代  できることのうち何をするか 50~60歳代、何をするほかないか 70歳代以上。

 

 だが本当のところは、自己の内なる必然の声がどんなものか、それに耳を傾け続ける。その点では年代、性別などすべての属性を超えている。

 

97.距離感覚

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 辺見庸が寄稿した文の次のパラグラフに目がとまった。繰り返し読んだ。

   「若い人びとはおそらく知るまい。一見はげしく対立するはずの、ヒューマニズムテロリズムの二点をむすぶ線分は、おどろくべきことに、かつて、それほどに長いものではなかったのだ。直線的な理想主義とそれを根拠とする憤激が、あるとき短絡し、おぞましい殺りくを結果した例は、1970年代の連続企業爆破事件にとどまらない。運合赤軍事件も内ゲバ事件も、生まれついての暴力分子の手になるものではなく、まことに逆説的で皮肉なことには、もともと過剰なほど真剣に理想をとなえるものたちの所業だったのである」。

(「中國新聞」2017年5月28日)

  去る5月24日、東京拘置所内で多発性骨髄腫の悪化による多臓器不全で大道寺将司死刑囚が逝去したのだが、彼への追悼を込めて書かれたものである。

  「ヒューマニズムテロリズムの二点をむすぶ線分は、おどろくべきことに、かつて、それほどに長いものではなかった」との一節に触発され、「距離感覚」という語が頭に浮かんだ。

  自己と自己自身との距離感以外に、もう一つ重要なのが自己と他(人や社会)との「気」を介在した距離感である。そこでの関係性は相互作用しながら自己(自分自身)のあり方に影響を及ぼす。よって社会心理学上での「パーソナル・スペース」の問題意識どころではなく、「哲学」として考察されるべきものである。

  小山俊一は「思索者」としてこんなことを書いている。

 生きた人間をとらえるのに、〈できるだけ近づいて〉と〈少しはなれて〉と〈できるだけ遠ざかって〉とでは、どうちがうかを考えてみるといい。(中略)人がふつうに生活者として生きるとは、自分自身を自分にとって〈もっとも近い(親しい)もの〉として生きること、いわば「至近者」としての自己を存在することだ。うまく行為にも言葉にもなりそうにない「短かい夢」をひきずりながらだ。

 ところが革命家として生きるとは、自分自身を自分にとって〈できるかぎり遠いもの〉(「歴史化」する存在)として生きること、いわば「至遠者」としての自己を(「巨視」するばかりでなく)すすんで存在することだ。「短かい夢」なんぞかたっぱしからそぎおとしながらだ。〈遠いもの〉としての自己を生きる、とはそのまま「自己疎外」の定義そのものだ。すなわち革命家とはこの種の「自己疎外」をすすんで己れに課するもののことだ(小山俊一『EX-POST通信』弓立社、139-141ページ)。

  

  自己と他(人や社会)を考える際の距離感覚をみごとに捉えているといえる。

     辺見にしろ小山にしろ、対峙する際の距離感覚が常人と違って研ぎ澄まされている。本質の認識・把握に紛れがない。

 それは例えば辺見の次の記述にもあらわれている。

 

 逮捕から約40年、獄中での自責と悔恨、死のシミュレーションは、かれの日課だった。つまり、かれは想念で毎日くりかえし死んでいた。

 大罪はむろん大罪である。大道寺がいくら詫びたとて、獄死したとて、事件の被害者はよみがえらない。遺族は救われない。その酷烈な諸事実の間の、気がとおくなるほどの距離に、しかし、なにもまなぱないとしたら、40余年の時間とおびただしい死傷者は空しいムダにしかならない。

 出所「同上:中國新聞

 

 以前、大道寺将司について質問者が、「作品には、〈君が代を齧り尽せよ夜盗虫〉〈革命をなほ夢想する水の秋〉とか、正直、まだそういうことを考えているのかと驚きましたが、その点はどう思われますか?」との問いに、辺見庸は次のように答えているのである。

 

  僕はべつに驚かないな。それを説明するには、彼の人柄から言わないといけないのですが、彼は、圧倒的に僕より善人です。僕より何千倍も誠実で、ギョッとするくらいにまったく荒みを感じさせない人物です。僕が目を見張るのはいつもそこです。目に荒みがない。いまの人間って、どんなにいいことを言っても視線が狡かったり、どこか下卑ていたりする。言葉と本当の思いが必ず乖離しているのが、すでにこの社会の前提ですよ。

(中略)

 しかし、彼との間ではインチキをやらなくて済むんです。一回約二十分の面会ですが何十年も昔からの友人に会いにいった気分で、顔が自然と弛んでしまうというか、お互い屈託なくなり警戒する必要がない。彼の目には疑りがない。三十七年間のホルマリン漬けみたいだなと彼に言ったことがあります(笑)。

辺見庸『明日なき今日  眩く視界のなかで』毎日新聞社、2012年、147-148ページ)。

96.軍隊の本性 

  司馬遼太郎は、生涯、天皇または天皇制について直接言及(論評)することを避けたが、高山彦九郎  ( 天皇潜在的君主とする志を全国行脚して説いた )を、さりげなく好意的に評価する一文を残したりしている。

 一方で、司馬にしてはめずらしく、先の戦争末期の陸軍大臣(阿南近畿)の発言や『鉄の暴風』(沖縄タイムス社編)を参照しながら、軍隊の本質を批判的に見抜いている。

 

 軍隊というものは本来、つまり本質としても機能とし ても、自国の住民を守るものではない、ということである。軍隊は軍隊そのものを守る。この軍隊の本質と摂理というものは、古今東西の軍隊を通じ、ほとんど稀有の例外をのぞいてはすべての軍隊に通じるように思える。(中略)軍隊が守ろうとするのは、たとえ国民のためという名目を使用しても、それは抽象化された国民で、崇高目的が抽象的でなければ軍隊は成立しないのではないか。(司馬遼太郎街道をゆく 二」『司馬遼太郎全集第48巻』414頁)

                              

   現在、ニッポン政府は、国民のいのちと財産を守るという美辞麗句を並べ、自衛隊を実質的に侵略可能な「軍隊」として憲法に明文化するべく画策している。首謀者は例のアベである。

 

 あの司馬遼太郎でさえ軍隊の本質が「自国の住民を守るものではなく、軍隊は軍隊そのものを守る」と述べているのだ。実際、敗戦直前の沖縄で、ニッポン軍が沖縄の住民を守るどころか逆に沖縄住民をスパイ扱いし、さらには村落から逃げるなどした住民を殺したのだ。

   沖縄駐留米軍は沖縄の人々を決して守りはしない。日本駐留米軍は日本人を決して守りはしない。彼らは彼らの軍を守る、彼ら自身を守る、彼らの国を守るために駐留している。

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 司馬遼太郎は、また、次のような言葉を残している。

「日本人は均一性を欲する。大多数がやっていることが神聖であり、同時に脅迫である」。

  

 現代消費資本主義下でのマス・マーケティングや脅しのマーケティングの対象としての消費者の姿がそこにある。金太郎飴のごとく「個」が溶解し、人びとが共同自己衒示的幻想へと駆り立てられていく。まさにこれがニッポンのファシズムの根茎に通じているのである。

   

 最後に例によって辺見庸の見解をみてみよう。彼なりの目で国家の本質を的確に突いている。慧眼である。

 

 国家が、本質的に抑圧機関であることは疑いない。けれども、まったくそうではなく、あたかも救済機関や理性(真理)体現機関のように、魅力的に見せかける欺岡に長けているのも、近代国家の特徴ではある。

 要するに、ひどく見えにくい。国家の、そうした不可視性こそが曲者である。なぜ、見えないのか。それは、国家というものが、断片的な実体とともに、非実体である〈底なしの観念領域〉を併せもつからではないだろうか。換言すれば、国家とは、その図体のほとんどを、人の観念領域にすっぽりと沈みこませているのはないか。

 極論してしまえば、国家は、可視的な実体である以上に、不可視の非在なのではないか。極論をさらに、進めてみる。国家は、じつのところ、外在せず、われわれがわれわれの内面に棲まわせているなにかなのではないか。それは、ミシェル・フーコーのいう「国家というものに向かわざるをえないような巨大な渇望」とか「国家への欲望」とかいう、無意識の欲動に関係があるかもしれない。

 ともあれ、われわれは、それぞれの胸底の暗がりに「内面の国家」をもち、それを、行政機関や司法や議会や諸々の公的暴力装置に投象しているのではないか。つまり、政府と国家は似て非なる二つのものであって、前者は実体、後者は非在の観念なのだが、たがいが補完しあって、海市のように彼方に揺らめく国家像を立ち上げ、人の眼をだますのである。そのような作業仮説もあっていいと私は思う。

(『永遠の不服従のために』毎日新聞社、2002年。のち講談社文庫、2005年、75-76ページ)。 

95.快楽にしびれる脳内回路

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 アベ首相は、かつて「美しい国、日本」と言っていた。いまでもこれをひろく浸透させたいらしい。それには春の日、咲き誇る桜の花に皆が集い酔いしれる国のイメージがあるが、実体は違うのではないか。

 

 特攻隊員のことについてアベは、「かれらは、愛しきもののために、他方、自らの死を意味あるものにし、自らの生を永遠のものにしようとする意志もあった。日本という国の悠久の歴史が続くことを願った。かれらはいのちをなげうって守るべき価値が存在したのだ」と記している。それを美しいニッポンの自然とともに語っているのである。(安倍晋三美しい国へ』文藝春秋)。空々し文章である。

 2,000万人以上のアジア・太平洋各国の人々を、ニッポンが大東亜共栄圏構築という妄想のもと、侵略して殺したことについては一行も触れていない。

 

 辺見庸は、ニッポン民族の情念さらには意識の古層にあるものを次のように捉えている。(アベの意識の最深底辺部にもこの種のものが棲みつき、彼を突き動かしているらしい)。 

 恐怖をかんじるのと快楽にしびれる脳内回路は、おもいのほか近いのだという。つまり戦慄とアクメはとなりあわせており、両者はしばしば短絡して、ふたつながらふくれあがり、結局、からみあったまま死へと昇華していくほかない。血しぶきとオルガスムスが同時的に噴きだすのである。そのことと日本的情念の古層にはなんらかのかんけいがあるはずである。と、1970年11月25日、三島由紀夫自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺したときわたしはおもった。

(『国家、人間あるいは狂気についてのノート』毎日新聞社、2013年、9頁)。

 

 「桜の樹の下には屍体が埋まっている」との書き出しで始まる掌編小説を書いたのは梶井基次郎であった。アベはそこで記されている「屍体」には目をつぶる。

 特攻隊として散っていった青年たちを「美しい」と称賛しているが、「水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚(あつ)めて、その液体を貪欲に吸い続けている。」という実態について見ようともしない。

 侵略そして戦争によって殺された人、戦死した兵士たちは、「桜の樹の下」でいまでも無念に苛まれている。その屍体のうめき声に、残された家族たちは必死に耳をかたむけているのだ。

 

 「この国の住民の脳には生まれながらにテンノ性ガンという不治のガンが巣くっている」(小山俊一「オシャカ通信No.2」248ページ)。しかも、マスメディアによって皇室関連情報によって「テンノ性」が繰り返し発信され、その「ガン」が励起されているのである。

 

 国・権力者・天皇の犯罪、そして国や権力者に命じられ、そしてテンノ性にたぶらかされて他国の人々を殺しまたは戦争に加担した者の加害者性は否定できない。それを「自虐史観」として非難し、しかも厚顔無恥に「未来志向」とほざく。とんでもない「自己チュウ」意識の持ち主たちと言わざるを得ない。

 

 美しいニッポンがあるのではない、ニッポンの美しさがある。すくなくとも、そう言えるようになるためには、表層批評では捉えられないことがあまりにも多い。小林秀雄が多用するレトリックの裏面を暴くような地道な洞察が求められる。

 

付記

 奈良県宇陀市の「又兵衛桜」(写真)と佛隆寺千年桜。いずれも田園のなかにある一本桜です。夕暮れに行くと一層妖しさが映えます。そこから小一時間ほど車を走らせると、曽爾村の屏風岩公苑を背景にした山桜を鑑賞することができます。

 (これらはすべて見頃がずれていて、とくに屏風岩公苑の桜は、開花が遅い)。

93.恥じなき国の

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 恥じなき国の恥じなき時代に、「人間」でありつづけることは可能か?と、辺見庸は問うています。厚顔無恥で軽薄な者たちを見聞するにつけ、この辺見の指摘が胸に突き刺さります。
 

 罪の文化も恥の文化も、本当は自己の目、自己の声に照らして自ら問い答えることによって成り立つものですが、実際はそのようにはなっていません。

 自己が横にズレ置かれ(疎外され)、罪の文化は神の目を、恥の文化は世間の目を意識したものになり、社会秩序のためのいわば統治手段の用具(概念)になっているのです。

  

 ですから、恥じなき国の恥じなき時代に、「人間」でありつづけることは可能か?との問いは、人が個として自らの内声に耳を傾けまたは実相を見つづけることによって、意識を対象化し欺瞞なく内的宇宙で交信できるか?と言い換えてもよいのだと言えます。

 そこには罰する神も非難する世間もないからこそ、個が求められるのです。煎じ詰めると自己のNot(Notwendigkeit)としての義を裏切ることができるのかということになります。

 

 多くの日本人が、自らの加害者性と愚鈍とを自覚しないまま、マスメディアと風潮に洗脳され、時代に棹差して異口同音の虚言を口にしています。

 それらを見せつけられては欝状態になるのも自然なこと。神経症もいわば時代の公傷だと開き直り笑い飛ばす。神経症統合失調症も治癒することを第一義にしない。ありのままに「生きる」。北海道浦河のベテルの家の「ゆるゆるスローな」「普通に生きる」人々は立派です。

 

 思い起こせば、最大の戦犯である天皇ヒロヒトが自決せず、処刑を免れ延命したことが、戦後の日本人の精神構造を腐敗堕落させました。 

 そして物質的豊かになったと錯覚し、モノの亡者に皆が陥って精神の自立を喪失してしまったのではないでしょうか。

 

 

90.生存感覚・生存意識

  本来の生存条件である稀少性、有限性そしてマチエールにかんする感覚の欠如ないし希薄化によって生存感覚・生存意識は、本来の健全さを喪失し認識力・判断力も歪になっている。 

 その主な原因は、マスメディアとインターネットによる過剰ともいえる情報によるところが大きいと考えられるのだが、あらためて次の所説を確認しておきたいと思う。

  

稀少性について: 小山俊一

 この地上に生れてくる人間がみな衣食足りて生きながらえるということは不可能であって、だれかが(むしろ大部分が)かならず飢えるか栄養不良になるかして死ななければならぬ、このことは人類史をつうじて今にいたるまで変らない―という基本事実の根底にある世界条件(人間全体にたいしての物質の不足、生産の不足)をサルトルは〈稀少性〉raretéとよんでいる。(中略) 

 また「国家を形成している集団の性質は、そのなかの余計者たちによって規定されており、集団は存続するためには数的に減少する必要がある。こうした数的な減少はいつも実際的な必要としてあらわれているが、かならずしも殺人というかたちをとるものではないことには注意しよう。」(傍点私)しかしかならず、殺人という意味をおびることにも注意しよう。

 私の註― つまるところ〈稀少性〉という世界条件のもとで人間支配があるかぎり「殺され」死は必然的だというわけだ。当然のはなしだ。

『EXーPOST通信』弓立社、44-45ページ

 

有限性について: ヴィクトール・E. フランクル

 私たちは、いつかは死ぬ存在です。私たちの人生は有限です。私たちの時間は限られています。私たちの可能性は制約されています。こういう事実のおかげで、そしてこういう事実だけのおかげで、そもそも、なにかをやってみようと思ったり、なにかの可能性を生かしたり実現したり、成就したり、時間を生かしたり充実させたりする意味があると思われるのです。死とは、そういったことをするように強いるものなのです。ですから、私たちの存在がまさに責任存在であるという裏には死があるのです。

 そう考えると、どれだけ長生きするかということは、本質的にはまったくどうでもいいことだということがはっきりするでしょう。長生きしたからといって、人生はそれだけではかならずしも意味のあるものにはならないのです。また、短い生涯に終わってもずっと意味のある人生だったかもしれません。あるひとりの人の自伝を判断する基準はその自伝を叙述した書物のページ数ではなく、もっぱらその書物が秘めている内容の豊かさだけなのです。

 (『それでも人生にイエスと言う』山田邦男・松田美佳訳、春秋社、47ー48ページ)。

 

マチエール感覚について: 辺見庸

 マチエールということばを使いましたが、それは人でいえば、においとか温もりとか、冷淡さとか、あるいは抱きあったときの感触とか、つまり質感や手触りや痛覚のことです。そういう交感可能だったものがいま、交感不可能になっているのではないかとおもうのです(25ページ)。

 マチエールをうばわれると、人間の生体はとんでもないゆがみ方をしていくのではないかというのがぼくの直感としてはあるのです(37ページ)。

 見ている側もメディアがこれでもかこれでもかと浴びせてくる虚像の世界を実像だと錯覚してしまう。「悲惨」ということばが、マチエールというのかな、本当に手触りもったことばとしてつたわってこない。それがかえって、いちばん悲惨なことだとおもうのです

(84-85ページ)。

 いまの若い人たちは、いや大人も、総じてマチエールをうばわれて、リアリティというものをそれぞれの肉体から剥ぎとられていっている。そういう時代に生きているのではないかとおもうのです。だから、愛とか痛みとか、人間の感覚のなかでもっとも大事な根源の部分が、麻痒させられてきている。痛覚がなくなってきているし、相手の痛覚も想像することができない(119ページ)。

(『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』大月書店、2009年。のち角川文庫、2010年)。 

 

   情報の「的確な選択」さらには「断捨離」によってあたかもプチ断食が、心身活性に似た効果を生存感覚・生存意識にもたらすだけではなく、諸関係における情報の功罪を再認識させる。

 意識産業からの情報を受け入れるしかなく「依存」効果の対象でしかなかった「虚ろなかかわり」を断絶することによって蘇るのは「個」の叫びだ。再生されるのは、自考力といってもよいし、自己教育力といってもよいかもしれない。

 

89.沖縄米兵の子が吊るされる日

 辺見庸は、自らの必然があればテロを敢行すると述べている。私的な被害・屈辱であったとしても、相手の行為が国家暴力を背負ってのものならば、公権力にゆだねることなく個人として制裁を加えるというのである。

 

 もしぼくがパレスチナの西岸やガザ地区などに生まれていて、いまのようなかたちでで(ママ)あんなでたらめな空爆をうけたら、八割ぐらいの確率でぼくはいわゆるテロリストになりますよ。親を殺され、妹を殺され、赤ちゃんを殺されたら、黙ってないですよ(『反定義   新たな想像力へ』辺見庸坂本龍一朝日新聞社、2002年)。

 

 沖縄はいつ戦時に移行するか予断を許さない情況にある。現在のところ半戦時と言えなくもないが、軍用機が飛び交う下で暮らす人びとや米兵による暴行・強姦の被害者、その恐怖に怯えている人びとにとって沖縄は「戦時」と変わらない。

 辺見はパレスチナの西岸やガザ地区での例え話で自らの決意を表したのだが、沖縄であっても変わりはないであろう。 

 

  毎日、ぼくらのこの世界はテロリストを養成してる。自爆テロ志願者を生み、育てているみたいなものでしょう。(中略)今後は、しっかりと話したり表現したりすることが肉体的な痛みとか、理不尽な目にあうということを、ある程度考慮に入れざるをえないと思いますね(『同上書』)。

 

 ところで、沖縄で生まれ育った目取真俊は、掌編小説『希望』で、戦後の沖縄の底辺最深部に鬱積している怒りの爆発ともとれる記述をしている。コザの市街地からさほど離れていない森の中で、行方不明になっていた米兵の幼児が死体で発見されたという設定である。

 

   今オキナワに必要なのは、数干人のデモでもなければ、数万人の集会でもなく、一人のアメリカ人の幼児の死なのだ。

 

との犯人の声明を記している。

 

 また『虹と鳥』という小説では、沖縄米兵による少女強姦に関して次のような表現がある。 

「こんなに人が集まっても何もできないんだから、沖縄の人間もどうしようもないよな。こんだけ集まったんだったら、基地の金網破って中に入ってな、アメリカ兵を叩き殺してやればいいのによ。いくら口だけわーわー騒いでも、アメリカーたちは痛くもかゆくもないだろう」。

 

「吊してやればいいんだよ。米兵の子どもをさらって、裸にして、五八号線のヤシの木に針金で吊してやればいい」。

 

「そうなのだ。カツヤは胸の中でつぶやいた。比嘉の言う通りだった。それ以外に方法などなかった。八万五千の人々に訴えている少女の姿は美しかった。だが、必要なのは、もっと醜いものだと思った。少女を暴行した三名の米兵たちの醜さに釣り合うような」。

 

 私はこの彼らの言辞に、追い込まれた者に特有の「罪業」と「必然の義」とのconjugation を読みt取る。

 

88.国家・戦争・人間

 テレビやVR(ヴァーチャルリアリティ)に慣らされて、「生身」や「マチエール」感覚が希薄化してしまっている。これに対して、辺見庸は述べている。

 戦争って大変に身体的なことですね。ぼくはアメリカが戦争を工業化しているといいましたが、工業は数値で説明できても、身体はそうはいかない。アメリカ国民には柔らかで痛ましい身体があるけれども、それ以外の他者は数値でしかないというのではおかしい。着弾の音で発狂してしまうとか、そうした被害者を目の当たりにすると、国家と人間というものの構図のなかで、人間というものをこれほど侮蔑したことはないなと、つくづく思います。アメリカ人は一度、そういう爆撃現場を見て歩くツァーをしたらどうかと思うぐらいです(辺見庸坂本龍一『反定義 新たな想像力へ』100ページ)。

 マスメディアを使って政府は民衆の一層の無力化を画策している。この状況はわたしたちにとって「悲劇的」である。

 それは、「<必要>の巨大さの前と緊急さの前に<手段>が間に合わぬことを悲劇的という」―小山俊一(「オシャカ通信」『EX-POST通信』262ページ)のこの言葉の意味において「悲劇的」なのだ。

 だが、デモに参加し、闘うにしても。次の二人の認識はこうだ。

 私たち生き残った戦争世代の者の処生(ママ)上の最低綱領は「国家のために指一本うごかさぬこと」の外になく、思想上の最低綱領は「<民族><国民>を志向するいかなる動向にも加担しないこと」の外にない(小山俊一『同上書』40ページ)。

 

 ぼくはその宿業のような国家幻想に徹底的に対抗する物語のほうが好きなんですね。ぼくは幸か不幸か例外的な本然的反国家主義者なんだと思う。で、ぼくが書くことは、徹底的に反国家的で、反政治で、どこまでもふしだらでいたいと思う。政治に吸収されない、政治に利用されない、国家や政治を勇気づけない、政治的な発想をどこかでせせら笑っていたいですね。ただ、そういうことをやる限りは、どっかで落とし前をつけなきゃいかんというか、何度もいいますけれども、必ず向こう傷を負わざるをえないだろうなと、ぼくは予感してるんです(辺見庸坂本龍一『前掲書』157ページ)。

 

  われわれの徹底的な無力さ。私はそれを承認する。これが<理性>の始まりであり、生涯をかけての闘争が開始される時である。」(「ポールニザン」)―徹底的な無力さ、そこにとどまること、そこから何かが「始まる」かのように浮足立たないこと、それこそがおれたちのたたかいなのだ。そこに辛うじておれたちの〈理性〉がある。

 君(たち)の〈責任感〉はそれをにぶらせる役にしか立たない。きっぱりとそいつをたち切らねばダメだと思う。

 これは議論じゃなくて事実のはなしだ。気づくか気づかないかだ(小山俊一『EX-POST通信』288-289ページ)。

 

 徹底した無力を認識した個そしてその集合態としての私たちの「<必要>と<緊急>は」いや増す、その心身状況が闘いへと自然に向かわせる。これがNot(Notwendigkeit)としての義の発現なのだろう。 

 

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 最後に次の言葉を。

生きた人間をとらえるのに、〈できるだけ近づいて〉と〈少しはなれて〉と〈できるだけ遠ざかって〉とでは、どうちがうかを考えてみるといい

(中略)

 人がふつうに生活者として生きるとは、自分自身を自分にとって〈もっとも近い(親しい)もの〉として生きること、いわば「至近者」としての自己を存在することだ。うまく行為にも言葉にもなりそうにない「短かい夢」をひきずりながらだ。ところが革命家として生きるとは、自分自身を自分にとって〈できるかぎり遠いもの〉(「歴史化」する存在)として生きること、いわば「至遠者」としての自己を(「巨視」するばかりでなく)すすんで存在することだ。

 「短かい夢」なんぞかたっぱしからそぎおとしながらだ。〈遠いもの〉としての自己を生きる、とはそのまま「自己疎外」の定義そのものだ。すなわち革命家とはこの種の「自己疎外」をすすんで己れに課するもののことだ(小山俊一『同上書』139-141ページ)。

87.生命は個としてのみ実現する

 大量殺りく、核攻撃、動機不明の殺傷、大規模災害、

 人びとは、いつ「殺され死」に追い込まれるかもしれない、そう観念するようになってしまっている。「人間一人の生命は地球より重い」はずなのに。

 だが、・・・・ 

「生命の尊さ」とはウソであって、どうしても「尊い」といいたければ「個(人)の尊さ」といえばよい、「生命」よりも「個(人)」の方が上なのだ。「殺すな」というときの、殺されるものは「生命」ではなく「個(人)」だ(小山俊一)。

 小山が言うように、かけがえのない一回限りの生を生きる「個」であるからこそ尊いのだ。 

 イデーもしくはドグマによって生命の尊さが根拠づけられるものではない。 

 生命とは、他を殺して生き己れのただなかに死をふくむという本質的な否定性をそなえている。この否定性は、生命は個としてのみ実現する(無定形の生命はこの地上にない)というところから生ずる  

 人間が日々他の生きものを食って生きる以上、そして人間と他の動植物の生命にちがいがない以上「生命の尊さ」はウソである。

  だから「殺すな」という定理は「生命」を殺めてはならないというのではなく、「個」という存在を根こそぎ消してしまうようなことをしてはならないということである。

 

 近時、やたら好戦的な権力者たちが魑魅魍魎としてのさばっているが、彼らには「かけがえのない一回限りの生を生きる<個>」への眼差しがあるとは思えない。生命が他を殺して生き、己のただなかに死を含むことを個として<生活者の心>(小山俊一)で認識しているかである。

 自爆テロについて辺見庸が「ただ単に、評論をうまくやってひとり悦に入るようなたぐいであったとしたら、これは言説として勝負にならない」と述べることにも通じるとおもう。

 なお、個として必死に産出した有形無形の非等価物を掠め取るという収奪システムのなかで人は生きているが、そこにも「絶やし」があることを観取する必要がある。

 

 

 

 

86.「それでも人生にイエスと言う」

 V・E・フランクルが著した『それでも人生にイエスと言う』(山田邦男・松田美佳訳、春秋社)は、「心の救い」と「矛盾隠ぺい」の両刃の剣であるが、実際は前者の書として世界中の人びとに読まれてきた。とりわけ悩める若者や挫折者に生気を回復させてきた功績は大きい。

 この言葉が発せられたのはナチによる強制収容所においてである。人間扱いされない極度の負(マイナス)の生存条件下で人間はいかに生きるのか(生きられるのか)、いかなる意識をもち行動する(できる)のか。

 周囲には、人間の劣情、獣性、権勢欲が渦巻いている。傷ついた獣のようにひたすら生きる。弱みを見せることは「死」を意味する。だから虚勢を絞りだす。体力・気力・知力の消耗はすでに限界に達している。

 今日は生きられても明日はガス室で殺されるかもしれない。それでも「人生にイエスと言う」。恐怖のドン底での狂気や逆説の言葉ではない。ギリギリの正気からの言葉であり、観念的な理論や小手先の心理治療での用語でもない。理論や治療メソッドは後付けされたものだ。

 一方、字面だけでこの言葉を受け取ると「安易な人生訓」に陥ってしまう。さらには権力者や強者にとって都合の良いように使われてしまいかねない。反証・批判はあてがわれなければならない。さもないと、この言葉は矛盾を糊塗したり抑圧の道具となるのである。

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 フランクルは「宗教的な人間は、人生は神が課した使命だと知って生きている」としているが、宗教的人間の方が<存在理解>が優れているとしていることも、宗教が有する危うさ(現実の矛盾の溶解)に無批判であってよいのかとの疑問がどうしても残るのである。

   

   辺見庸も、「フランクルが唱えていることはその凄絶な体験からしても生半な生の賛歌では無論ありえない。私が持ちあわせている自死の理屈なんぞフランクルが展開する意味論からすれば屍のようなものだろう」と述べるとともに次のように記している。

 

フランクルのこの論述自体が・・・・私は彼の言葉をどうしても素直に受け容れることができない。とりわけ「ある死刑囚の例」で語っていることは死刑や教誨活動を事実上、主の名の下に容認したがえうえでのものであり肯んじがたい。(辺見庸『自分自身への審問』毎日新聞社、2006年、151頁)。

 

     とは言え、「それでも人生にイエスと言う」という言葉は、深遠な意味をもつ言葉であることに違いはない。いくつかの留意点を掲げよう。

🔴ここでの人生は「わが人生」であろう。それを敷衍し各人の人生にもイエスと言うということになる。

 自分の人生は生きるに値しないと自身が思う場合にはイエスと言えないが、皆さんの人生にはイエスと言ってください、というのでは説得力に欠ける。各人の(いかなる人であっても)、いかなる状況にあっても、人生にイエスと言えるのか、との問題も含んで考えなければならない。

🔴「それでも人生にイエスと言う」といっても、その内容や覚悟の程度はどうなのか。

V・E・フランクルが言っているのは、彼の強制収容所での体験からして、相当の覚悟であり、深い洞察に基づくものであることは相違ない。凡人がポジティブシンキング志向を吹き込まれてこの言葉を口にするのとは格段の相違である。深く考えることなく「現状肯定」をずるずると引きずっていると、いつの間にか取り返しがつかないことになっているが常態なのだ。

🔴「人生の意味を見出せなくて」ではなく、人生が求めてくることに感応して生きる意味を知る。「人生にイエスと言う」のはそのようにしてである。

 🔴これはフランクルの言葉ではなくて強制収容所での「囚人」たちが隊列を組んで行進するときに歌ったもので、それをV・E・フランクルは自分なりの心理学に基づく心理療法(ロゴセラピー)に即して唱えたものであるという。その際、ニーチェニヒリズムの超克としての「超人」思想を参照し、「それでも人生にイエスと言う」と発したものであるとされる。

 ただし、V・E・フランクルは「人間は、もう論理的な法則からこの決断を下すことができません。自身の存在の深みから、その決断を下すことができるのです」(『同上書』、112-113頁)とも述べていることに留意する必要がある。

🔴人生にイエスと言う。その内容はさまざまである。ただ肉体として生きる(生存する)、課せられたさらには科せられた人生を生きる、役割意識で生きる、人生意味あるとして喜びにみちて生きる。このように幅広い。一方、逆に、人生にノーという人もいる。そしてその内容は多様である。

🔴「それでも人生にイエスと言う」というフレーズの中に「それでも」という前詞が置かれているのは、イエスと言えない状況があって、それへの対処に苦悩し葛藤していることを含意する。その苦悩・葛藤を幾度繰り返してきたのか、その苦悩はいかほど深いものであったのか。それらのことを同時に観取しなければ、この言葉の核心について想到したことにはならないのではないか。

 

85.辺見庸 ×目取真 俊 : 対談

 戦争へ向けて歩み始めている。

   目取真俊 × 辺見庸の対談は、そのような情況かと思わされるなかでなされた。まさに時宜にかなった対談である。

  だがこの対談、共同通信社の配信によって4月16日に沖縄タイムス琉球新報に載ったものの、今のところホンド(本土)の各新聞には掲載されていない。大手新聞および地方紙は、この二人の見解をスルーすることが現政府に良い印象を与えるとでも判断(自主規制)したのか、それとも日々マスメディアに軽佻浮薄を意識づけられている読者には「受容されない内容」であると思ったのか。

 一日も早くこの二人の対談を各新聞社が掲載することを望むものである。さらに言えば対談のすべてを何らかの形で公けにしてほしいと願う。

  ラディカル(本質的)な視点からの二人の発言から数点抜粋する。だが、これら(すべて、もしくは一部)が、今のニッポンでは自然には受け入れ難いとする「空気」が現存する。そのことが「異常」なのだ。

 

 下記の文章(枠内)については前後関係を「本文」で確認の上、読んでいただきたい。

共同通信 / 沖縄タイムス 2017年4月16日)辺見庸氏X目取真 俊氏  対談「本土の視線、潜む欺瞞」-沖縄基地問題を語る。

   対談記事の出所(抜粋元)。

    「Blog「みずき」2017.4.16 。今日の言葉。

           「志情(しなさき)の海へ」2017年4月 19 日。真実の在り処。

 

①本来は敗戦後、昭和天皇を処罰の対象とするのが当然だった(辺見)。

②1945年2月に近衛文麿(元首相)が出した戦争終結の上奏文に昭和天皇は、もう一度戦果を上げてからでないと、と言う。沖縄は「捨て石」という判断がその時から既にあった(辺見)。

③沖縄も無垢じゃない。加害者でもある二重性を自覚すべきだ。ベトナム戦争でもイラク戦争でも基地を通じて米軍を支えた(目取真)。

④目取真さんは沖縄を人間身体と不可分の問題として考えている。(中略)例えば、沖縄が必要としているのは一人の米国人の子どもの死だという暗喩を込めた目取真さんの掌編小説「希望」。傑作です(辺見)。

⑤安保条約の問題を抜きにした9条擁護派は欺瞞だと思う(目取真)。

⑥沖縄の渡嘉敷島宮古島読谷村には慰安婦の慰霊碑がある。(中略)沖縄に置き換えれば、そういう碑をつくるなと国が口を挟むようなものだ(目取真)

⑦怒りの導火線が湿った状態がいつまでも長続きするとも思わない。かつてとは違う形の闘争が何らかの契機で爆発するときがあるかもしれない(辺見)。

⑧日本政府が(沖縄の)独立を認めることはあり得ないと思う。領土だけではなく、広大な領海も失う。そうなれば、自衛隊が出動し、県民に銃を撃つかもしれない(目取真)。

   

 

<余禄:私見>

 領土・領海の拡大または独裁者国家の延命など、他国のせいにしながら国土・国民の防衛を言い募るニッポン政府。

 侵略され攻撃される前に撃つこともあり得ると言う。自国だけでは心もとないから米国の軍事力を頼みにしつつ。

 「かの国」が核兵器保有と威力を顕示する核実験を強行すれば、米国は独裁者の暗殺さらには核攻撃を含む軍事力行使を断行すると公言している。米国まで核ミサイルが確実に到達する水準(力量)に「かの国」が達しないうちにである。在日米軍、在韓米軍に死傷者や犠牲が出てもやむを得ないと割り切る。ましてや、日本や韓国にどれほど犠牲が出ようと「織り込み済み」のことするのが米国の見解だ。その先には、中国の領海・領土拡大に対する反発・制御戦略の強化や先制がある。

 安倍内閣は、クニのためならば、国民は犠牲を覚悟するのは当然であるとする。政府(国家権力)の役目は武力攻勢してでもニッポンを守ることにあると公言する。

 だが、そもそも朝鮮分断そしてその後の朝鮮戦争は、軍国主義ニッポンおよびその後の米ソの覇権争いに起因したものである。今日の朝鮮半島の分裂は、休戦そして収束の結果、朝鮮民衆がやむをえず受け入れたものだ。日米の侵略の罪業が朝鮮半島の今日の状況を生み出しているのであって、そのことを頬被りし「休火山」のマグマを噴出させるがごとく穿つことは、二度にわたって朝鮮民衆を痛めつけることになる。

 アメリカ・ファーストが自国(米国)第一主義であるならば、文字どおり軍事も自国防衛に専念し外交努力と国内問題改善に全力を傾注すればよい。シリアや北朝鮮には自力更生を間接的に支援するべきだ。ましてや権力者自らの支持回復のために戦略的に他国を介入・侵略することは、被侵略国や世界の安定には厄災以外何ものでもない

 国家の本質は暴力装置である。自国第一主義の国家リーダーたちが、その暴力装置に手を染めることを民衆として止めなければならない。暴走は金融資本主義で、もう、辟易しているのだ。

「 怒りの導火線が湿った状態がいつまでも長続きするとも思わない。かつてとは違う形の闘争が何らかの契機で爆発するときがあるかもしれない(辺見)」。

80.ある詩人の「剽窃」

 辺見庸は10年ほど前にこんなことを書いている。

  どだい、政治のなにが重要というのか。あれらの言葉の愚弄。空洞。あれらの言葉の死。ほら、そこの軒下に干してある黄ばんだおしめほどの意味すらありはしない。

『言葉と死 辺見庸コレクション2』毎日新聞社、2007年、203ページ

 

    政界用語や本性を美化する日本会議の面々による胡散臭い用語。もし言葉に匂いがあれば「異臭」が立ちもめているといってもよいだろう。しかもそれをマスコミが大衆の「俗情」を察知しながらかき混ぜる。清冽な言葉が完全に滅し、不等価性をもった言葉も死んだ。人びとは、指示用語と商品化用語だけの世界で生きていく。

  ところであるツイッターで次のような文言が目についた。詩人、河津聖恵(第53回H氏賞受賞者)のつぶやきである。

 

 私にとって詩の主体は、言葉あるいは日本語かもしれないとふと思った。あたりまえかもしれないけれど。これだけ人間が言葉をエゴの恣にし、噓いつわりしか語らなくなると、言葉が人間を見捨てていく。人間が言葉を、ではなく。だからせめて詩を書くときは、遠ざかろうとする言葉の側につきたい(下線は引用者)。 2017年3月13日

 

 「言葉が人間を見捨てていく。人間が言葉を、ではなく」。まさにこの一文は現在の言語状況に対して的確な表現である。ニッポンや米国だけでなく、世界の国・地域にも当てはまるようになっている。

 だが、この表現、45年前にある詩人が発したものであることについて河津は記していない。あまりにも有名なフレーズゆえに、記憶の中にあったものをつい使ったのか?それとも未必の「剽窃」(盗用)なのか?

 河津聖恵は、その後、この表現が日本共産党機関紙「しんぶん赤旗」のコラムで取り上げられたことをツイッターで紹介している(2017年3月27日)。そのコラムを書いた詩人も、これが(この部分が)石原吉郎(詩人)によるもの(と同様の趣旨)であることについて全く触れていない。

 その点、辺見庸は、このフレーズが石原吉郎によって発せられたと適確に書いている。(出典:『瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ』NHK出版、2012年、185-186ページ:他の著作の中でも引用している)。

「ふたたび、石原吉郎の言葉が浮かびます。

・・・・・・ことばを私たちがうばわれるのではなく、私たちがことばに見はなされるのです。ことばの主体がすでにむなしいから、ことばの方で耐えきれずに、主体である私たちを見はなすのです。いまは、人間の声はどこへもとどかない時代です。自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかりきこえる時代です。日本がもっとも暗黒な時代にあってさえ、ひとすじの声は、厳として一人にとどいたと私は思っています。いまはどうか。とどくまえに、はやくも拡散している。(後略)(「失語と沈黙のあいだ」『石原吉郎全集Ⅱ」花神社より)(下線は引用者)。

 

  河津は、ツイッターにおいてではあるが、詩人として情報発信媒体を使い他者の重要な「言葉」を使う。それについて気づかないまま肯定的に「評価」する「詩人」もあらわれる。それが「政党新聞」にそのまま掲載される。

  「言葉が人間を見捨てていく。」(河津)「ことばの方で耐えきれずに、主体である私たちを見はなすのです。」(石原)。この二つのフレーズが実質同じであることは明らかである。

  詩人という言葉をいのちと同じくらい大切のするはずの人、最も言葉を創造的に扱うはずの人が、このありさまである。(商品経済に心を売った谷川俊太郎もしかりであることは以前取り上げた)。

 言葉が「詩人」を見捨ててしまうことにならないように願うばかりである。

 

* 付記

 後日、河津聖恵氏から「剽窃」を認めるメールでの回答があった。しかし、反省の言葉や、善後策について何も記されていなかった。

 

79.辺見庸:内宇宙への回路

 創造的な破壊は否定的破壊であり、現実(構造)を是認したうえでの破壊ではない。批判は現実およびその基礎の構造に対しなされるものである。そして、思想は批判と不可分で、思想は批判そのものであるともいえる 。そのことからすれば、辺見庸の批判はまさに批判の要件を充足している。

 辺見庸の賛同者には、熱心な読者、ウォッチャー、さらには受け入れられない部分があるものの大筋では賛同する人までいて幅広い。

 また、初期の『もの食う人々びと』や『反逆する風景』といった著作の愛好者から、『単独発言』や『いま、抗暴のときに』などといった反戦評論の支持者、『いまここに在ることの恥』や『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』といった内省・自己探求関連の本の愛読者、さらには辺見の詩作集、小説、随筆集に魅せられている人もいる。併せればいまでも2~3万人くらいはいるだろうか。

 その中には辺見の古くからの知人、理解者、支持者がいてコア・メンバーとなっている。

 興味深いのは、愛読者が、辺見の思想の構成主題をいかに咀嚼し理解しているか、各主題への対応姿勢はどうなのかである。

 例えば次のような主題を掲げてみよう。一般的愛読者は別として辺見庸の愛読者(とりわけ賛同者)を自認する人であれば、これらの主題の内容や論点は単に二者選択ではなく、思考過程も含め洞察できることだろう。 

 主題にかかる「辺見の主張」についてあらためて「賛否」を自問してみる。もちろん、辺見の考えのすべてに賛同とするのがよいというわけではなく留保・反論があってしかるべきである。辺見庸(の思索)を絶対視してはならず、彼の思想は宗教ではないのだから反証可能性を有したものであることは言うまでもない

 そのうえで考えられるのは、以下の各主題で下の方に記されたものほど理解・賛同しかねる人が増えるのではないかということである。それはそれでかまわないのだが、辺見の本領は、実は、それら(下部に位置する主題)にあり、各自各様に辺見の思考を糧に、自らの思索・探求を深め日々の意識と行動の在り方の変革に資するには、それらは格好の課題であると言いたいのである。

 

マスメディア批判 :賛否(賛同か反対か)

戦後民主主義批判 :賛否

反権威・反権力・反戦・反侵略・反ファシズム : 賛否

消費資本主義批判 :賛否

小林秀雄批判   :賛否

個への偏執    :バートルビー、鹿野武一 尾形亀之助

改憲反対     :賛否

言語評論     :賛否

下降志向     :賛否

滅亡・自死願望  :賛否

エロス      :ゆで卵、赤い橋の下のぬるい水、ダフネ等での「痴態」

天皇制      :瀆神、歴史風土、不如意な好感

Notとしての義    :Seal'sへの批判

暴力論      :肉体、流血

死刑制度     :存置、即時撤廃、原則撤廃(部分的に存置)

大道寺将司    :三菱重工ビル爆破、結果的に意図しなかった多数者殺傷、虹作戦