辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

B-32 「月」

 

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 辺見庸が雑誌『本の旅人』に連載していた「月」(にくづき)が8月号で最終稿となった。終了の間際近くに連載中止(放棄)の意向が辺見によって表明されたものの、その後、彼は翻意し何とか最終回までこぎつけた。しかし辺見庸には描き切った満足感はないだろう。描き切れるほど軟な題材ではないのだから。

 

 人それぞれが思い描く「真」の心象(月)、それを凝視しつづけ、今まっすぐに突き進む。虹(投影態)が身体から立ちのぼり月に架かる。これをどのように考え描くのか?否定すべき状況を判断し、いっそ滅亡をとの内語に応えることが真っ当なことなのか。

 

 辺見庸の「月」連載最終回にこんな文がある。

 

     

 もっともっと全的な無。どこにも比較するもののない、闇に似て、闇でさえない無。どこまでも、ひたすらはてのない無。(中略)みられず、さわられず、おもわれない、無。シモングモとイエユウレイグモなら、いっぴきずつ、いてもいいかな。(中略)

 

 なぜ、なぜ、いつまでも「在る」の状況から解放されないのか。解放されてはいけないのだろうか。在りつづけるほうが、かえってひどく空虚ではないのかしらん。

 

『月』の主人公の「さと」くんが見た月と虹。しかし、それは存在そのものの全的滅亡状況と対峙し、絶望し、幾度となく逡巡しつつも個の内的必然から実行する(実行せざるをえない)者が見る月と虹とは似て非なるものである。

 

 個体の思念と行動を規定する「生存感覚」「自己内規律」「言語」の三層構造、そこでの関係性の齟齬。元来、人びとの心の内奥での「持続する共感」そして「疎通」などありえないというのが存在する者の現実である。

 サイコパスでも統合失調でもなく、脳内の共感器質・意思疎通の働きの脆弱ないし偏り、その受容を、程度の差(ゼロから100)こそあれ前提として存在が成立しているのだ。

 

 補遺

   求められるのは上記構造における思考循環そして脱権力・脱権威・脱消費資本主義である。殺戮の歴史を意識の底に押し込め、国家の罪業である「戦争」ではなく、人は何とか「明日につながる」いのちそして暮らしを紡いでいる。